第22話
文字数 5,133文字
「茉莉ちゃん、それってどういう意味?」
子供にも容赦なく紗良は鋭い視線を向けた。
「銃声が聞こえたのは一度だけです。その時は浅葱さん以外にも佐伯さん、黒須拓真さんもいます。もし浅葱さんが犯人の場合だと、佐伯さんと拓真さんが共犯者ということになりますよね」
鋭い視線に負けない、茉莉の閃きと瞬発力。真を犯人に仕立てあげたい紗良からしたら思いもよらなかった推察だろう。
茉莉も現場を見たわけではない、状況的推理だ。だが茉莉は確信がないことを言い訳にせずにこう続けた。
「拓真さんだけ戻ってきたので、その間に浅葱さんが殺害することも可能です。でもその場合、無駄なんです。最初の段階、浅葱さんが手紙を拾った段階で浅葱さんが犯人でないことは明白なんです。だって犯人なら、自分が疑われるような真似はしないんですから」
いつの間にか花瓶の中に差し込まれていた手紙。犯人からの犯行予告は最初から仕込まれていたものではない。明らかに突然出現したものだった。
茉莉の推論に食ってかかろうとしていた紗良だったが、猛弁を前に何も言えていない様子だった。
その代わりを縫うように、杏が反論した。
「犯行予告は読まれないと意味がない。だからあの場で犯人が読み上げたんじゃないの」
「それが変なんです。そもそも犯行予告というもの自体が不思議でなりません。浅葱さんが犯人だった場合、手紙を読んだ後は他の人達に確認に向かわせるべきなんです。ここに残れば少なくとも自分が疑われずに済みますから。それを率先して立ち上がったということは、浅葱さんが犯人でないことの証です」
「あんたさ、浅葱さんが探偵だからって盲信してるだけじゃないの」
杏はまだ数分前の諍いが収まっていない様子だった。しかし茉莉は冷静にこう返した。
「浅葱さんが犯人なら、昼に森の中に入った時にリミーと私を殺害するチャンスがありました。でも私達は生きている」
浅葱真は犯人ではない。そもそも紗良の暴論は直情的で信頼性に欠けるものだったから誰も支持者はいなかったが、犯行が行えるのは真と奏楽、拓真しかいなかった。それなら犯人がその内の誰か一人で、他二人が共犯者と考えたほうが筋が通っていて簡単だ。人間は自分の命が危険に晒されると思考が単純になる。簡単な道を歩もうとする。だが茉莉はその危機感がないのか真を助けたかったからか、真だけでなく三人分の容疑を晴らしてみせた。
茉莉の雄弁さに答えるように、真はこう口を開いた。
「馬宮さんの部屋の前についた時、部屋の中から物音が聞こえた。争うような物音だ。だから俺は、俺たちの認識していない人物が屋敷に潜んでいるのかもしれないと考えている」
誰かが食堂から出たなら、紗良は真っ先にその人物に標的を方向転換するだろう。ところが紗良は黙って俯くだけで反論をしない。ということは、誰も食堂から出た人物がいないと考える。誰も食堂から出ていないし、拓真と奏楽も真と一緒にいた。
まだ部屋の中は十分に調べきっていないが、物音を出す装置も見られなかった。真が部屋の前に立つまで蒼佑は確実に生きていたのだ。
「完全なる密室殺人か」
英は顎に手を置きながら、表情を曇らせていた。真はさらに言葉を続ける。
「銃を持ってる俺はもちろん部屋中を探した。犯人は見つからなかったが、この屋敷に精通している人物であれば隠し通路や扉を使って外に出ることは可能だ」
いかにも怜美が反論しそうな内容だ。ミステリーとして、隠し通路があれば読者を白けさてしまうから作家としてはなるべく使うのを避ける。しかし犯人としては隠し通路を使ったほうが身元を知られずにすむし、犯行を容易く行いやすい。犯人にとって屋敷とは、蜘蛛の巣そのものなのだ。どこからでも現れ、どこへでも逃げられる。
「どうして、皆そんな冷静にいられるの? だって人が死んでるんだよ!」
リミーは全員を見渡して問いかけた。人が死ぬ中で、最も人間が取るべき行動はリミーをお手本にするべきなのかもしれないと真は思った。落ち着かない彼女を宥めに入ったのは英だった。
「落ち着いてください、リミーさん。私だって相棒が殺されて、怖いって気持ちはあります。ですがね、それ以上に怒ってもいるんですよ。浅葱さん、あなたもそうなんでしょう」
言葉を求められた真は、腕を組んでこう言った。
「馬宮さんは人柄が良かった。刑事だとは思えないくらいな。秋本さん。俺たちは恐怖に怯える前に、やるべきことがある。それは宣戦布告をしてきた犯人に対して、真正面から堂々と受けてやることだ。逃げてるだけじゃ全員が殺される。だから立ち向かう必要がある」
「やだよ、私は犯人と戦うなんて。殺されたくないもん!」
「戦うのは俺と御手洗さんだけだ。他にも戦いたい人間がいれば、戦えばいい。でも戦いたくないなら、それでもいい。俺が守る」
犯人は精神異常者だ。きっとこの犯行もゲーム感覚で行っているに違いない。英に言われて初めて、真も自分が怒っているのだと気付いた。
人間は誰も平等に生きる権利がある。誰かの意思で奪われるべき命は存在しない。存在してはいけない。
「本当に守ってくれる……?」
「ああ、約束する。秋本さんだけじゃない。ここにいる全員、俺と御手洗さんが守る。それでいいよな」
今度は真が英に顔を向け、互いに頷いて忠誠を交わす。
最早、ルピナスだなんだという段階は既に超えた。推理ゲームではない。防衛ゲームなのだ。自分達がいかに死なずに防衛しきれるかという、大いなる戦い。
特に怜美は守らなければならない。彼女を失って、どの顔を下げて事務所に戻ればいいと言うのか。
「浅葱さん、僕は蒼佑の部屋を調査しなくちゃならない。根本さんらについてきてもらう。その間、食堂の指揮を任せてもいいですかね」
二つ返事で真は了承し、英は兄弟を引き連れて食堂を後にした。念のため食堂の扉に鍵をかけた真は、何も言わずに席に腰を下ろした。
それに続いて紗良や亜里沙も腰を落ち着かせ、食堂の中に吹き荒れていた混乱の嵐は収束していくのだった。まだリミーだけは手を震わしているが、茉莉がその手を握ると、彼女は安心したような顔つきになり、パニックを引き起こすことはなくなった。
空気が静まり返ると、月夜の下に歌う生命達の鳴き声が遠くから聞こえてきた。微かに波の音も聞こえるだろうか。その音を聞きながら人々は、様々な色をした感情を身に宿していた。真はその中でも、放心の色をした目で一点を見つめていた。
「あの、一ついいでしょうか」
沈黙を崩したのは亜里沙だった。真の目の前の席に座っている彼女は遠慮がちに手をあてて、全員に聞こえる声で言った。
「誰かうちの主人を見ていませんか」
紗良は追及しなかったが、行方不明になっている文世も犯人として成立する人物の一人だった。容易な道をいくならば、彼が最も犯人である可能性が高いことを真は知っていた。しかし、それを口にするのは
亜里沙の問いかけには、奏楽がすぐに答えた。
「食堂に来るときにすれ違いました。新城さんと会ったのはそれが初めてですね」
「そうですか。他の人は?」
誰も何も言わない。ということは、誰も文世を見ていないことになる。最後に会ったのが奏楽ならば、彼に問い質してみる必要があるだろう。その時の文世の様子を。
再び訪れる沈黙。亜里沙は沈んだ面持ちのまま、目の前の皿を見つめていた。誰も紫苑が用意した食べ物に手をつけようとしなかったが、最初の一口をリミーが食べ始めると、続々と空腹を癒すフォークと皿が交差しあう音が聞こえてきた。
「浅葱君は食べないの?」
夜の孤島で殺人事件。ワトソン役を演じているならば一番の演出だというのに、怜美はいつもの調子を崩して真にそう言った。
「俺はいい。食べる気分になれない」
怜美の腹の虫が声をあげ、彼女は照れ隠しで咳をすると簡単な言葉を返して、すっかり冷めてしまったであろう輪切りのポテトフライをフォークで刺した。
重苦しい重力が彼らの手の動きを遅くさせる。その時、食堂の扉がノックされて英達の声が聞こえた。近くにいた紫苑は扉を開けて彼らを中に招き入れた。純也は額から汗を流していて、恒は気分が悪そうに青ざめた表情をしていた。
真は立ち上がると、足早に英の前へ向かった。
「何か見つかったか」
飾り気のない真っ直ぐな言葉をかけると、英は小さく首を横に振った。
「犯人の手掛かりとなりうるものは見つからなかった。隠し通路、扉の類は見つからなかったですし、行方が分からない新城文世さんも見つかりません。ただ、真さんが嘘を言っていないことは明らかになりましてねえ。いやはや、純也さんが医療に精通していて助かりました」
純也は恐れ多いと言わんばかりに慌ててこう付け足した。
「免許を取ろうとして一度失敗した身ですよ。僕は医者じゃない、だから検死結果だなんてあてにしないでくださいよ」
「安心してください。今僕達がいる世界は、言うなれば五十年以上も前の世界です。昔の検死もまあ大雑把だったって聞きますよ」
検死をしたというなら死亡時間よりも大事な話がある。真は慎重にこう尋ねた。
「死因は分かったのか」
英も無論、真が尋ねてくることは想像していただろう。用意していた答えをそのまま話すように、英は事務的に答えた。
「分からないんですよ」
「それはどういう事だ。あんなに傷がついてたじゃないか。身体の隅々まで調べたんだろ」
「ええ、調べましたよ。でもどの傷も大したものじゃなかった。あの出血量なら出血死ではなさそうですし、外部からの攻撃で死んだとは考えにくい。銃創もありませんでしたし、真さんが撃った弾が何らかの拍子で蒼佑の身体に当たったことはまずありえません。そこで考えられるのは、内部からの攻撃です」
たとえ純也が名医だろうと、道具がなければ解体はできない。解剖してみないと細かな死因までは特定できない、と端的に英は言っていた。
「でも犯人は中にいたんだ。どうやって身体の内側にダメージを与えられるんだ」
「例えば毒薬。口にガムテープが貼られてたのは吐き出すのを阻止するためでしょう。まぁ毒薬の類のものは見つかっていないので、少々不思議過ぎますけどねえ。ああ不思議といえば、こんなものを見つけました。蒼佑の上着のポケットの中に入っていたんですが」
英はコートの内側から一枚のカードのようなものを取り出した。食堂にいる人物達の全員の視線が、そのカードに注がれる。
真は見たことのないカードだった。しかし、そのカードが不吉なものを表しているのは容易に想像ができるものだ。地面に倒れる男に、幾つもの剣が刺さっていた。
「それ、小アルカナじゃない?」
今まで黙っていた御子が声をあげてそう言った。
「いや古谷さん、ご存知でしたか。さすがは小説家。そうです、これは小アルカナと呼ばれるカード。まあトランプのようなものだと思ってください。このカードの意味、古谷さん分かりますか」
「ええ。ちょうど今、アルカナカードをモチーフにした小説を書いているところだったから。それはソードの十。正位置か逆位置かで解釈が変わってくるけど」
「おそらく正位置でしょう。蒼佑の胸ポケットには真っ直ぐ入っていましたから」
御子はしばらく考える素振りをして、やがてこう言った。
「正位置なら、望まない形での終焉よ。馬宮さんは何かを望んでた、でも運命は彼の望まない結果で命を終わらせてしまった。そういう解釈ができるわ」
「望まない結果、ですか」
英はカードをスーツの中に閉まって、一度深呼吸を挟んだ。
犯人は、遊んでいる。ミステリーゲームのように、人の命を使って遊んでいるのだ。真は憤りがせりあがってくるのを感じていた。だが今は冷静になるべき時だ。怒りの感情に支配されては、見えてくる物を見逃してしまう可能性があるからだ。
これからの行動について話し合う必要がある。探偵と刑事で協力して、全員の命を守らねばならないのだ。
犯人捜しは帰ってからでもできる。今必要なのは攻撃よりも防御だ。犯人に踊らせられないように、慎重になる盤面なのだ。
「浅葱さん、ちょいと話をしませんか。無計画のまま過ごすには、あまりにも危険な状態だ」
「そのつもりだ」
二人は食堂の端にいって、互いにスマートフォンを取り出しながら作戦を練り始めた。その様子を、怜美は物憂げな表情で眺めていた。