第33話
文字数 3,974文字
カーテンが閉じられていて、窓の外は見られない。だが窓が閉まっていても、潮が追いては引く音が遠くから聞こえてくるのだった。
「おはよう、浅葱君。よかったら一緒に歯磨きしにいかないか」
怜美が話しかけてきたが、彼女はとうに寝起きから回復していた。真が起きるのを待っていた様子だった。
「外に出ていいのか。籠城が崩れたら犯人の思うつぼだぞ」
あくびをしながらそう返すと、ソファの上で優雅に紅茶を飲んでいた英が口を挟んだ。
「それについては僕が説明しましょう」
彼はコップをソーサーの上に置いて、こう続けた。
「今日は一日中ここにいるでしょうが、ここには化粧室も何もない。風呂なら一日は我慢できるでしょうが、それ以外については我慢のしようがない。だから三人一組、うち一人は男性必須というルールを作って、その中でなら外に出ても構わないということにしました。外に出る時間も十分から十五分。これが破られた場合、破った人間は被疑者の線が強いとして個室に隔離する罰則を与えます」
「罰則、少し厳しいんじゃないか。被疑者の線が強いのは分かるが、もし罰則を破って一人になったそいつが死んだら責任は御手洗さんが取るハメになるんだぞ」
「そうなんですよねえ。だから皆さん、ルールは絶対に守ってくださいよ」
自分の作ったルールの妥当性に疑いを持つふうではなく、英は言い切った。今は絶対的な権力を持つ彼に従う他ないだろう。個人事務所の素人探偵よりかは、刑事の考えを優先すべきだろう。代案もない。罰則が重いのを除けば、よくできたルールだと言えた。
「それじゃあ、行きましょうか」
怜美の他に立ち上がったのは、拓真だった。
話を聞くまでもなく、英は黒須一家をまとめさせたくないのだと理解した。一家が犯人だった場合、まとまって外に出させるのはリスクが大きい。十分程度ならば工作をする暇があるのだ。
蒼佑の事件で拓真が真についてきた時点で、英は黒須家を疑っているのかもしれない。同時に現場にいた真としては、拓真が犯人ではないと真っ先に分かっているのであるが、人間は目にした物事以外は信じにくい性質がある。刑事なら特にそうだろう。伝文程度の無罪証明は、ちぎり捨てられた小説家の原稿用紙と同じくらいの価値しかない。
全員は昨日のうちに荷物を談話室に移動していた。真は鞄の中から自前の歯ブラシを取り出して、三人で化粧室へと向かった。男性用の化粧室だ。
歩きながら腕時計にタイマーをセットしていると、拓真は真にこう言った。
「浅葱さん、ちょっと話があるんですが」
拓真は深刻そうな顔をしていた。
「昨日、僕は若杉さんと古谷さんとのペアで寝ていました」
彼が立ち止まったから、真と怜美も歩みを止めた。一体彼が何を言わんとしているのか、真には想像もできなかった。
「もしかしたら、我々には共通点があるかもしれません」
「共通点か。さんざん考えて結論が出なかったんだが、どんな共通点を見つけたんだ」
拓真はなるべく談話室に聞こえないように小さな声でこう続けた。
「昨日、古谷さんがこう仰ってました。もしかしたら犯人は、オンラインカウンセラーかもしれないと。それが誰か確かめるために、談話室に向かうと言って部屋を出ていったのです」
「ついていかなかったのか。もし拓真さんがついていったら、彼女は助かったんじゃないのか」
「こう言っても信じてもらえないかもしれませんが、古谷さんは若杉さんを監視してほしいと言ったんです。共犯者の可能性があるって」
拓真が犯人だったとして、この話が創作だと考えられもする。胡散臭い話が出た時点で、真か英に報告するべきだからだ。
「どうして刑事に連絡しなかったんだ」
「しようと思いました。ですが、憶測だけで動いて御手洗さんからの信用度がこれ以上落ちるのを避けたかったんです。それに、御子さんはもう一人連れていくと言ってました。純也君です」
「個々がどこにいるのか分からないはずだ。古谷は純也に個人的に連絡を取れる手段を持っていたのか」
「僕もそこについて聞いてみました。そうしたら、少し、驚くことに」
知ってはいけない事実を知ったのだろう。拓真の目は、その時の記憶を頼ってしまったせいで泳いでいた。人のプライバシーに関わることだからと、彼は慎重に言葉を選んでいた。
やがて、拓真は口を開いてこう言った。
「純也君と古谷さんは、個人的な関係を持っていました。更に二人は同じオンラインカウンセラーと連絡を取り合っていたそうです」
個人的な関係。二人がどこまで発展しているのかは分からない。だが他人でない事実が明らかになった。純也は紗良とも繋がっていたはずだ。
「ここまでの話を聞いた限りじゃ、そのオンラインカウンセラーってやつが談話室にいて、そいつの正体を確かめに古谷は向かった。そういう話でいいんだな」
「はい。時間がないので、そろそろ朝の支度を済ませてしまいましょう。戻ったら御手洗さんは、昨日の行動を全員分洗い出すつもりらしいですからね」
結局、昨夜は聞き込み調査ができなかった。第二の事件が起きた時点で英は多少の聞き込みはしていたが、応急的なものでメモを取ってすらいない。改めて全員に聞く必要があるのだ。
朝の支度を早めに済ませた真達は、ちょうど十三分が経過したくらいで談話室に戻るのだった。
暖炉に火が通っているから、鋭い寒気のするホールから戻った時に良い暖かさに包まれる感覚を覚えた。
カーテンを開けて窓の外を見ていた英が、真が戻ってくるやいなや残念そうにこう告げた。
「今朝から電波障害が起きてるせいで、外界と連絡が取れません。それだけじゃなく、八時に来る予定だった救援も来ない。座標も正確に送ったのですが、これはおかしな話になってきましたねえ」
救援が来ない。一番色めき立ちそうな紗良を見たが、彼女は魂の抜け殻のようにぼうっとしていた。一日で五年分は老いてしまったかのように、表情も
代わりに恒が英に突っ込んでみせた。
「正確な座標を送っておいて、どうして来ないんだ。いくら日本の警察が遅れていても、救援くらいは出せるはずだよ。僕たちを見捨てたんじゃないだろうね」
「そうなれば大問題ですから、見捨てたという線は捨ててもいいでしょうねえ。考えられるのは何者かの襲撃にあって船が沈められたか、座標を改ざんされたか。しかし今は、救援は来ないと念頭に置いたほうがよさそうです。頭を切り替えましょう。どうして来ないのかを気にしている場合じゃありません」
昨夜の手紙に書いてあった通り、救援の船は本当に来なかった。犯人は一体何者なのか。
真は携帯端末を開いたが、英の言っている通り圏外になっていた。探偵の師である二十に連絡が取れないのは、これ以上ない痛手だった。
「全員起きたことですし、昨日の行動を各自振り返ってみましょう。怜美さん、ちょっと手伝ってもらえませんか」
唐突に名前が呼ばれた怜美は、返事をする時に声が少しだけ裏返った。彼女のドジで、固まっていた空気がやんわりと
「これから今ここにいる全員分のアリバイを確認します。怜美さんは必要だと思った話をメモしてください。話は僕がするので、メモ取りに専念していただければと」
救援が来ない事実に嘆いている時間を与えない。英は優秀な刑事だった。普通ならパニックを起こしても仕方がない状況だというのに、理論で混乱を防いでいるのだ。混乱は伝染するのを知らなければとれない行動だ。
英は第一人者として拓真を呼び、尋問が始まった。
弛緩していた空気が再び硬くなり始め、海鳥が遠くで鳴き、薪が火で割れる音がいつもより大きく聞こえるのだった。
英が尋問をしている中、真は昨日の部屋割りが書かれた紙を見つけて、改めて誰がどの部屋にいたのかを確認しようと考えた。部屋割りの把握は、事件解決をする上で必須だったからだ。そう思った時、真はこう感じた。ああ、もう犯人を探すのが最大の自衛なのだと。翌朝になれば帰れるという幻想は砕け散ったのだと。
昨日はただ自衛だけを考えればよかった。だが結局、犯人は犠牲者達を外におびき出して殺害したのだ。今は思考こそ一番の武器だ。
真は改めて、目の前の紙に注目した。英の声が聞こえてくるが、集中力を高めてなるべく彼の声を遮断するようにしてみせた。
第一の組。真と怜美。
第二の組。拓真、御子、亜里沙。
第三の組。紗良、杏、純也。
第四の組。英、茉莉、紫苑。
第五の組。リミー、恒、奏楽。
犠牲者はリミー、御子、純也、茉莉、文世。
真の組を除けば、その他全ての部屋から一人は犠牲者が出ている。真は脳が揺れるような
特に茉莉だ。英はどんな理由があろうと茉莉を外には出さなかっただろう。英が見回りを開始した後、こっそりと外に出たに違いない。その理由が分かれば良いのだが――。
「思い出したぞ!」
ソファに座って頭を抱えていた恒は、突拍子もなくそう言って顔をあげた。尋問していた英は口を閉じた。
「刑事さん、犯人は分かった。こいつしかいない」
確信に満ちた表情で、彼は立ち上がった。一体恒は何を思い出したのか。誰もが固唾を飲んで、次の言葉を待っていた。