第25話
文字数 2,588文字
午後八時半、亜里沙と御子が互いの恐怖心を解消しあうような会話をしている中で、拓真は輪には入らず椅子に腰掛けて水を飲んだ。もう何度コップに口をつけたか、数えるのも馬鹿らしい。コップの中が無くなると、拓真は席を立って水道水を注ぎ込む。
英の指示で、用意された麦茶やビールには手をつけないことになっていた。開封済みであるなら毒が入っている可能性があること、未開封なら万が一電気と水道が止まった時に飲めるということ。
参加者は二人減って十四人。拓真は恐怖を和らげるためにビールを飲みたかったが、それを必死に押さえつける必要があった。さらに、拓真は他にも懸念すべき事柄があった。
「黒須さん、あなたも災難ね」
いつの間にか輪から外れていた御子が、拓真の前の席に座ってそう言った。亜里沙は窓枠に腰掛けながら、憂いを帯びた目を拓真に送っていた。
「よしてくれ。災難なのは僕だけじゃない。ここにいる皆がそうだよ」
真っ当なことを言ったつもりである拓真にとって、御子がこう返したのは意外だった。
「奥さん、ひどい人なんでしょう。一番辛いのはあなたよ。大事な娘と離れさせられて」
昼間の廊下でのやり取りを聞かれてしまったのだろう。話していたのは御子の部屋と近かったから無理もない。
「不安定なんだ。精神が。僕が離婚できない理由の一つさ。親権は、絶対に僕に来ないだろうからね」
「どうして。紗良さんは娘さんのこと好きそうに見えなかったけど」
「表面上はね。いや、実際嫌いなのかもしれない。ただ紗良は、人一倍責任感が強いんだ。病的なくらいね」
責任感が強い人間は、無意識のうちに自分を追い込む。一つの悩みができると、連鎖的にいくつもの悩みに襲われる。散弾銃のように。そして幾つもの銃弾を受けて雁字搦めになり、いつしか自分自身が銃を手にするようになる。
暴力、暴言、さらには虚言、依存、逃避。今の紗良は、地面の見えない綱を毎日渡らされている恐怖と、渡り切らなければならない責任感に苛まれているのだ。
「ロキタンスキー症候群なんだ。女性なら、一度は耳にしたことがないかな」
女性にとって大事な宝物を奪われる病気だ。悪魔が女性の子宮を強奪するような病気。紗良は生まれつき子宮が無く、子供を産めないことが約束されていた。
沈んだ表情で御子は頷いた。
「知ってるわ。でも、子宮移植とか造膣術とか、今の時代ならいくらでも……」
「少し複雑なんだ。紗良は神の意志っていうのを信じてる。というより、神様の存在が子供の頃唯一、紗良の支えだった。僕が移植手術や色々提案をする度に、子供を産めないのは運命なんだって」
運命に逆らうわけにはいかない。逆らったら神様に怒られてしまうから。
「それでも子供は欲しかった。僕も紗良も。だから孤児院にいた杏を引き取ったんだ。今にして思えば、家庭崩壊が起きたのは杏を引き取ってからだった。杏を否定しているわけじゃない。紗良は、大いなる責任を感じたんだ」
「だとしても杏ちゃんが可哀想ね。母親の性格のせいで虐げを受けるなんて」
「だから僕が杏の味方にならなくちゃいけないって思ってるんだけど、いつも空回りで。今回の旅行も、家族仲良くできたらって思って杏を連れてきたんだ」
いつも空回りすることに、拓真は自嘲気味な笑みを漏らした。
静かだった亜里沙が、自信の欠けた小さな声で言った。
「私、よければ杏ちゃんの様子を見てきましょうか?」
「外には出るなって刑事さんが仰せだ。君の安全だって保障はされてない。あの探偵さんがついてれば話は別だけどね。浅葱さん、結構頼れる人だから」
どこからか通知音が鳴った。御子の端末からで、彼女はポケットから取り出すと片手で素早く操作し始めた。拓真は再び水で喉を潤し、額と手の甲をくっつけた。
「杏ちゃんのことを煩わしく思っておきながら、暴言を吐いてでも世話をしようとする心理が私にはわかりません……」
「結婚した僕だって分からない。人間って、みんな複雑なんだよ。世界を見てもそうだ。共産主義、資本主義、民主主義。きっと皆が皆の気持ちが分かる世界だったら、戦争なんてものは起きなかっただろうね」
「戦争、ですか。黒須さん、戦争がお嫌いなんですね」
「醜いモノだから。国同士のいざこざに市民が巻き込まれる。小学生の頃に知って、僕は強い義憤を覚えた。それ以来ずっと嫌いなんだ」
国を人間に例えるなら、隣人との喧嘩に他の住民が巻き込まれて殺されてしまうようなもの。挙句の果てには同居人に指示を出して、相手を殺害するように命令する。
拓真は、キューバ危機の話を父親からよく聞かされていた。当時父親はアメリカにいて、いつ核戦争が起きてもおかしくない恐怖と戦っていたことを赤裸々に話した。
杏も同じだ。杏もただ、巻き込まれているだけなのだ。
「それより、今大事なのはいかに自分を守るかだな。浅葱さんが言ってたように。大事なのは部屋から一歩も出ないことだ。今日は僕が夜通し見張ってるから、二人はゆっくり寝ていてほしい」
拓真は疲れ切った笑みを亜里沙に届けてみせた。でも、と亜里沙が口を開きかけた時、御子は端末を強めに机に置き、声を遮った。
何事かと窺おうとすると、彼女は静かにこう言った。
「黒須さん、ちょっと外に付き合ってもらえない?」
御子はおかしなことになっていた。表情は真剣で、どこか怯える様子さえあるというのに、声は平常心を保っている。ちぐはぐに感じた。
「一歩も外に出ないことが生き残る上で大事なんだ。御手洗さんは見回りをするって言ってるし、外には出ないほうがいいと思うんだけど」
「いいから。ちょっと二人で話したいことがあるのよ」
拓真は亜里沙を見た。亜里沙は、あどけな表情で疑問符を浮かべながら御子を見ている。
「分かった。少しだけだよ。若杉さん、僕たちが出ていったら念のため部屋の鍵を閉めておいてほしい。すぐ戻ってくるから」
不安そうな表情に変わった亜里沙は、落ち着かない様子でありながらも拓真の言葉を飲み込んだ。
席を立ちあがった御子は、武器代わりになりそうなビール瓶を冷蔵庫から取り出して、鍵を開けて外に出た。拓真は亜里沙に一瞥を送り、安心させるような笑みをしてみせた。