第6話
文字数 2,994文字
壁を背負っているから姿は見えないが、言葉の持つ感情は明確に彼女の苛立ちを表していた。男性が返事を滞らせている間に、彼女は次々と口を動かしていく。
「あの子だってそもそもこんなイベントに参加したくなかったでしょうし、私たち家族が揃っていい事なんで一つでもあった? ないわよね。いっつも何か問題が起きて、あの子がヘソを曲げるんじゃない」
「ヘソを曲げてるのは君だって同じだろう。それにあの子は、こういうゲームは好きな方なんだ」
「へぇ、その根拠は? どうしてそう思うわけ」
「
「このイベントはミステリー小説なの? 違うでしょ」
無関係な家庭事情に首を突っ込むのは紳士的ではない。個人の問題であり、真はその場を離れようとした。これ以上耳にいれても不愉快になるだけだ。
反対側の通路に足を向けた時、真は硬直した。どうすればいいのか、どう声を掛ければいいのか分からなかったからだ。
女の子がいた。年齢は中学生くらいだろうか。黒い髪が目の上にかかっていて、目つきが悪く、睨まれていると錯視してしまう顔付きだった。だが無言で目を合わせていくうちに、彼女は不機嫌なのではなく救いを求めているのではないかと思考が
「どうしたんだ?」
真が問いかけると、彼女は膝までかかった紺色のスカートを力いっぱい握りしめて俯いた。この間にも、背後では男女が言い合いをしている。
「とにかく、あの子はずっと部屋の中にいさせておいて。そもそも今どこにいるの? あんな気持ち悪い子が外に出歩いてたら、他の参加者が迷惑するわ」
「君は言葉を選べ。自分の子供に向かって気持ち悪いなんて言う親がいるか」
「私の子じゃないわよ。あんたが勝手に連れてきたんでしょうが。私は仕方ないからってわざわざ――」
真は、直感で動くことにした。目の前の少女の手を掴んで、半ば無理矢理引っ張りながら歩いた。彼女は何も言わずに、ただ俯いて真の手を離さずに後ろを歩いた。
自分の部屋に入った真はそっと扉を閉めて、鍵をかけた。
「手、痛くなかったか」
「ううん、平気」
少女はベッドに座り、虚空の一点を見ていた。真は冷蔵庫を開けて、中に入っていたサービスの麦茶を青いガラスでできたコップの中に注ぎ、彼女に渡した。彼女は小さな唇で液体に触れ、ゆっくりと飲んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。部屋の中に入ってしまえば彼らの声は聞こえないから、沈黙はお互いの心を整理する時間となった。
先に整理がついたのは、真だった。
「あれは、あんたの家族なのか」
しばらく悩んだ後、少女はこう答えた。
「たぶん」
コップに口をつけながら答えたから麦茶の水面が揺れて、声がガラスに反響した。
「ミステリー小説が好きなんだってな。盗み聞きするつもりはなかったんだが、聞こえちまった」
「好きだよ。まさかパパが気付いてくれてたなんて知らなかったけど」
「あんたの母親って、いつもあんな感じなのか」
唐突な問いに、杏の呼吸が少しだけ乱れた。彼女はまだ麦茶の入ったコップを真に向けて伸ばし、彼がそれを受け取ると背中を丸めて膝に肘をついた。
「しょうがないよ。血が繋がってないんだから。ママは、子供が産めない病気になってるんだって」
「でも同じ名前で、同じ家で育ってるんだろ。家族ってのは血の繋がりだけが全てじゃない」
「人間、理屈ではそう分かっててもさ……たぶん、受け入れられないものはあるんだと思う」
齢を若くして、きっと杏は様々な困難に見舞われてきたのだろう。同年代の他の子供達よりも大人びていて、人生そのものに達観しているように見えた。諦観とも呼べる彼女の心情は、母親にも働いている。
「好かれようと努力したこともあったよ。でもダメだった。むしろ私がママに甘えたり、構ったりするほどに怒られた。私のことが、大嫌いなんだと思う」
「俺はあんたの家庭事情を知らない。だが、母親は飯を作ったりお小遣いをくれたりとか……してくれないのか?」
「ママは家事が嫌いだから、いつも仕事を言い訳にしてやらないよ。パパの方がよっぽど頑張ってる。洗濯物、お風呂洗いとか。料理を買ってきてくれるのもパパだし」
杏と会ってから、彼女は一度も目を合わせないことに気付いた。意図的ではなく、彼女は無意識で人間そのものに疲れ果てているように思えた。目を合わせる気力がない、目を合わせてしまうと束縛されているような
古い自分とよく似ているのだ。若いうちから世界を拒絶し、世界に好かれるのを諦めた。
真は今でも、人から愛されるということを諦めている。彼女の背中に刺さっている黒い矢が見えるのだ。
「母親のこと、憎んでるんだろ」
「ううん、嫌いじゃないよ」
「あんな事を言われて、好きになれるはずがない。いつも似たようなこと言われてんだろ。家でだって、あんな態度取られてんだろ。嫌われてるってあんたが思っちまうほど。それなのに、嫌いじゃないなんてどうして言えるんだよ」
「あんなの、嫌う価値もないから」
初めて杏と目が合った時、真は
――だが、なぜだろう。そのケダモノの感情は悪魔のような顔つきをしていながら、それとは違う慈愛さを伴った、矛盾した存在にも見えるのだ。
「私は腐った人間をどう思うかより、あなたみたいな良い人に心を割きたい。だから、あんなのが嫌いって考えてる時点で無駄」
ついさっき、真は彼女の背中に自分の過去を視た。しかし、同情するにはあまりにも傷が深すぎる。自分以上の黒い過去、闇を背負っている。並大抵の人間が理解できる
どれほどの痛みだろう。真は想像もできなかった。真は家族を失い、悲しんだ。何日も泣いた。では彼女は?
「でも、パパは嫌い。私のことを哀れに思ってるから。全然そんなことないのに」
「父親は正しいことをしてるはずだ。それは間違いなく、あんたのためだと思うぞ」
「うん。だから嫌い。パパはね、ママも私も好きなんだよ。それが、すっごく、嫌い」
真はガラスコップをテーブルの上に置いて、彼女の隣に腰を下ろした。薔薇のような香りがするが、彼女には不釣り合いに思えた。
「もう少しだけここに居ていい? ママには内緒で出掛けたから、きっと怒られると思う。怒られるのは嫌だから、もうちょっとだけ先延ばしにしたい」
一瞬、真は杏を庇おうとした。親の前に立って、あんたは間違ってると真正面から言おうと思った。
杏はそれを望んでいるだろうか。そう考えて、喉元まで出かかっていた言葉を別の言葉に変身させて言った。
「分かった。俺もしばらくここにいる」
隣に座っているだけで、彼女がどれほどの苦痛と悲しみを味わってきたのか、その片鱗が伝わってくるように感じた。
そして再び沈黙の時間が訪れた時、真はさっきまでの緊張感をようやく解いた。
杏は、小指の側面でそっと真の手に触れた。怜美が戻ってきたら誘拐だなんだと騒がれるのだろうなと不思議なことを考えながら、真は杏と共に流れている時間を蔑ろにせず、真正面から受け止めた。