第18話
文字数 3,935文字
思わぬ助っ人が現れて、杏は目を瞠っている。紗良は何か言おうとしたが、言葉にならない声を発しながら蒼佑を睨むだけだった。だから、少し前までの喧騒は嘘のように止んでいた。
しばらくして怜美が前に歩み寄り、階段の柵に両手を置いて見下ろすと、蒼佑は静かにこう言った。
「俺は他人です。黒須さんの家がどんな事情だとか、紗良さんがどんなに大変だとか、そんなことは一切分かりません。ですがね、そんな俺でも分かることはあるんですよ」
感情を押し殺したような声だった。その殺された感情がどういったものなのかは、怜美には計りかねた。蒼佑という人間をよく知らないからだ。
だが次に蒼佑が口を開いた時、彼の人間性を知った。最初に怜美が会った時には考えられない言の葉だった。
彼は静かな怒りを紗良に与えるように言った。ただただ、静かに。
「暴力ってのは、ダメなんですよ。殴られた方も殴った方も悲しくなる。だって痛いでしょ。どっちも痛いんだ」
「これは暴力じゃないわ、
紗良が当たり前のように反論した時、蒼佑は紗良の手を離した。
「紗良さん、あんた杏ちゃんを殴ってる時に杏ちゃんの目を見たことがあるんですか。俺は見ました。杏ちゃんはどう思ってたか、俺には分かりますよ」
杏は身体が震えていた。紗良の標的は蒼佑に移っていたからだ。紗良の握っている拳が、自分を助けてくれた蒼佑に向かわれるのではないかと思えて、杏は怯えていた。それに気づいた怜美は咄嗟に階段を駆け下りて、杏の後ろでしゃがんで背中を抱き寄せた。大丈夫、大丈夫よ。何度もそう声をかけたが、杏は頷くだけ。小さなパニック状態になっていた。
「馬宮さんだったかしら。今日初めて会うわよね。それなのにこの子の気持ちが分かるって? 笑わせないで。あんたのような青二才が分かるわけないでしょうが!」
「俺には分かる、この子はずっとあなたに訴えていたんですよ。目で」
「バカバカしい。何か言いたいなら口で言えばいいじゃない。ねえ、杏。私に何か言いたいことでもあるの?」
視線が杏のところへ戻った。するといっそう強くなった彼女の震えを抑えるように、怜美は彼女の手を握った。杏は首を小さく横に振った。
「ほら、無いって! 部外者は引っ込んでて」
「目を……見てください。ちゃんと彼女の目を見てください……!」
「呆れた。まだそんなこと言ってるの?」
怜美には分かった。蒼佑の中で、感情を抑制していたリミッターが決壊した。だが紗良は何も気付かずに
「この子はね、何も考えてないのよ。反省とかしない、発達障害なわけ。頭の出来が悪いから何も考えられなくて、自分の嫌いなものは何もしない。好きなことしかやらない。私の言うことはなんにも聞かない。そうよね、あんたとは血が繋がってないんだから、そんな人間の言うことをきく義理なんてないわよね。はあ、こんなことならサインなんてするんじゃなかった。別の家にあげるんだった」
言葉の暴力が杏の心臓を抉っていく。紗良は日ごろ溜まっていた鬱憤を晴らすかのようだった。二人の間に霞んで見える悲劇が浮き彫りになり、怜美でさえ震えそうになった。杏は毎日、彼女からの暴力に耐えているのだ。いつ死んでもいいような世界で。むしろ死んでしまいたいような世界で杏は生きている。
「どうして、杏ちゃんが言うことを聞かないのか考えたことはありますか」
蒼佑は声を震わせてそう言った。
「私のことが嫌いだからでしょ。いつもうるさくガミガミ言うもんね。嫌われて当然だわ」
「彼女の目を見て。何度も言います。目を見てください」
「杏、行くわよ。自室にずっと籠ってて。次に部屋から出たら、この屋敷に置いてくから――」
蒼佑は紗良の言葉を遮ってこう言った。なんの介在もなく、真正面から真実と戦う蒼佑の言葉が紡がれた。
「杏ちゃんは諦めたんだよ!」
蒼佑はずっと溜め込んできた感情を吐き出すかのように言った。その瞬間、杏の目から雫が流れた。頬を伝って、顎。下に落ちる。もしも杏の足元に花が咲いていたのならば、きっと花はこう言うに違いない。良かったね、と。
「あんたに愛されることも、理解されることも。全部全部諦めたんだ! だから言うことが聞けなくなった。嫌いなことをする心の余裕もなくなった。発達障害を疑う前に、まず自分の行いを省みろってんだ!」
その時、初めて紗良は杏の目を見た。涙が零れ落ちるその目から、紗良は何を受け取っただろう。
紗良は「もう知らない」と捨て台詞を吐いて、鼻をすすりながら自室へと戻っていった。怜美はポケットの中にしまっていたハンカチを取り出して、杏の頬を拭いた。
「怜美さん、すんませんでした。俺、何やってるんですかね。本業ほったらかしにして」
蒼佑はその場にあぐらをかいて座り込んだ。顔を下に向けて、戦いが終わったあとの戦士のような表情をしている。安堵か、不安か。後悔か。
「刑事さんって、人を守るのが仕事ですよね。馬宮さんは杏ちゃんを守ったじゃないですか」
蒼佑は人の良い笑いを取り戻して、杏と怜美交互に目を向けた。杏の前でしゃがみ、頭に軽く手を置きながら「もう大丈夫だ」と言うと、杏は静かな声でこう言った。
「ありがとう……」
涙の声に混ざっておかしな声になったが、蒼佑には、怜美にさえ彼女の真の気持ちなのだと理解した。
怜美と蒼佑は時折顔を合わして笑いながら、杏が泣き止むのを待っていた。怜美は頭の片隅脱出用ボート探しのことを置いておきながらも、杏のそばにいることを選んだ。
真は探検と称しながら洞窟がないか森の中を探し回ったが、結局徒労に終わってしまった。今は西日が差し込む海のダイヤモンドを見ながら、三人海岸沿いに並んで座っている。
波の音と海鳥の声が遠くに聞こえる。世界で起きている喧騒を忘れさせる、至福とも呼べるひと時だった。一人だったらもっと気が楽だっただろう。真は、どうして追い返さなかったのかと今更ながら自問した。女性が苦手なのだと自分で分かっていながら。
「もう五時ですね~。後一時間したらお夕飯ですね」
茉莉は誰かに言うわけでもなく、正面を見ながら言った。海に向かって語り掛けたのかもしれないと錯覚するほど、茉莉の声は真っ直ぐ飛んでいった。
「そうだね。確か海鮮料理、山の幸料理とか色々出てくるんだっけ」
リミーも同じように、前を見ながら話していた。真は話の輪に入らず、押しては返される波をじっと見ていた。
「コース料理でしたよね。確か紫苑さんが全部用意するんだとか……。大変ですよね」
「紫苑さんってここに来る前は使用人と料理長を兼任してたらしいよ。浅川家ってところだったかな。だけど人間関係のトラブルでクビになっちゃったんだってさ」
「人間関係、ですか……。紫苑さんをまだ見たことがないのですが、厳しい方なのでしょうか」
「私も見たことないんだけどね。どうなんだろう。でも十五人分の料理を用意するくらいだから、多分仕事ができる寡黙で真面目な人なんじゃないかなって気はするなあ」
「へえ……。秋本さん、よく紫苑さんのことについて知ってましたね」
リミーは薄く笑ってこう言った。
「私、前にも似たようなルピナスのイベントに参加したことあってさー。その時も使用人の人がいたんだけど、それがヨボヨボのおじっちゃんとその娘さんっぽい人でさー。それはそれは酷かったんだよ、サービス全般……。文句タラタラの人が何人かいてね。それ以降、使用人の人については調べるようにしてるんだ。それで紫苑さんについて調べたらネットで一発で出てきたんだよ」
時々真は、自分がゲームに参加していることを忘れそうになる。観光で無人島に来ていて、暗号を解いたら三百万。その程度の認識にさせられるのだ。だがこれはれっきとしたゲームの舞台の上であり、今も犯人役の人間が生存者を狙っているのだ。犯人役は誰だろうと推理するのは探偵役の役目。真は犯人に後ろから刺されないようにするだけだ。
ただ複雑なことに、犯人役ではなく本物の犯人が潜んでいるということだ。この島では今、三つの大きな謎が用意されている。ゲームの犯人役は誰か、患者は誰か、遺言の謎の答えは何か。この全てが解き明かされた時に、物語の真実というのは姿を現すのだろう。
真はそう考えた時、自分の愚かさに初めて気づくのだった。八条から賞金について聞かされた時から、遺言の謎を解けばいいとしか思っていなかった。だからルピナスというゲームのルールを度外視していた。
だがゲームの主が患者ではないかと考え始めた時に気付くべきだったのだ。ルピナスというゲームについて、その進行方法さえ知っておかねばならない。犯人役の人間が、真犯人である可能性もあるのだから、
「リミー、さっき前にもルピナスに参加したことがあるって言ったよな」
「うん、それがどうしたの?」
「俺は初めてこのゲームに参加して仕様がよく分かってない。よかったらゲームのルールや進行方法を詳しく教えてもらえないか」
それなら、と茉莉は人差し指を立てて真を見た。
「私も結構ルピナスに参加しているので、教えてあげちゃいます」
女性は苦手だったが、連れてきたのは間違いではなかったということが立証された。これから市民がどう動けばいいのか参考にするべきだろう。
ゲームというのは定石がある。アクションゲームでもテーブルゲームでも、自分達の陣営が勝つための最善手として研究されてきた動き方というのがあるのだ。真はこの島に