第29話
文字数 7,829文字
柔らかい。刺しただけで肉汁が溢れ、引っ込んでいた食欲が連れ出される。オニオンソースも相まって、少なくとも食事の時間においては、私は安寧の時間といえた。
「リミー、大丈夫ですか?」
茉莉に言われて、私は自分が何をしているのかを認識した。ハンバーグにフォークを刺しているけれど、ソースを塗っているだけで食べようとはしていないのだ。
「大丈夫だよって言いたいけど、正直……分かんない。お金目当てで参加したけど、まさかこんなことになるなんてね」
考えれば考えるほど、私は家族が嫌いになり始めた。そもそもこんな家に生まれなければ、ルピナスに参加することもなかったのだ。
茉莉は幼さゆえか、食欲に抗えずにポテトを頬張っている。もう冷めきっているだろうから、本来の美味しさではないだろうが、彼女は次々と食事を口に運んでいった。
チルドレンデザイナー。世間でも昼間でも、良い顔をする人間は少ない。でも私は、作られた人生というのが羨ましく思えた。
「あの、さっきはごめんなさい。本当に」
藪から棒に茉莉が言ったから、最初はなんのことか分からなかった。私は困惑した顔を作ったであろう後に思い出した。杏と喧嘩をしていたではないか。
茉莉も不本意だったのだろう。それにしてはヒステリックの度合いが過ぎていたように思えるが、彼女はまだ子供だ。暴力沙汰に発展しなかっただけマシだった。
私は言葉より先に、彼女の頭に軽く手を置いた。笑いながら大丈夫だと言うと、今度こそディナーに口をつけた。
浅葱さんと御手洗さんからの命令で、私は根本恒、佐伯奏楽と同室することになった。食事中にそう言い渡され、どうせ一人で来たのだから関係ないと思い、特に文句もなく従う。私は正直、頭が良いわけじゃない。探偵と刑事が出した結論に文句をいうほどの知能は持っていないのだ。
だから黒須紗良さんが声を張り上げた時、私はちょっとだけすごいと思ってしまうのだった。
「どうして家族三人揃って部屋にいられないのよ。三人一組なんでしょう? ちょうどいいじゃない」
御手洗さんは、紗良さんがそういうのを前提に考えていたようで、すらすらとこう言った。
「いいですか、私達は全員が被疑者です。私だって浅葱さんだって同様です。身内同士を固まらせるわけにはいかないんですよねえ」
「さっき聞いてたわ。浅葱さんと金井さんは同じ部屋でもいいんだってね。あの二人はいいの? そんなの不公平よ」
「もちろん、その点に関しては深く考えました。ですがねえ、浅葱さんはともかく金井さんに関しては限りなく白に近いんですよ。動機もない、蒼佑とは接点もない。事件が起きた時に金井さんはここにいた。蒼佑とここで別れた後、金井さんは会ってないんですよ」
「それなら私だって会ってないわ」
「あなたは、ね。でも旦那さんはどうでしょうか」
話が拓真さんのことになると、紗良さんは血相を変えて握りこぶしを作った。私も茉莉も、不安に曇った眼差しで二人を見ていた。
「紗良さん、落ち着いて。何度も言うようですが我々全員が被疑者です、それは変わらない。ただ浅葱さんは探偵、金井さんはその助手。二人が殺人を犯す動機は薄い。そのことを考えると、同室にしても問題ないと判断したまでです。何より、二人は三人部屋じゃないんですよ」
「動機なんて、そんなのいくらでも考えられるじゃない! 大した問題じゃないわ。私が言いたいのは、不公平だっていうことよ。探偵だから許されるとか、差別もいいところだわ」
すると、浅葱さんが御手洗さんと肩を並べた。浅葱さんはこう言った。
「どうして家族三人がいいんだ」
浅葱さんの目は冷淡な氷のようだった。その冷たさに、紗良さんは作っていた拳を解いてたじろいた。
「そんなの決まってるじゃない。その方が安全だからよ」
「杏は子供だから犯罪と関わっているとは考えたくない。だが、もし今回の犯人が黒須一家だった場合、仲良く三人で一晩計画を考える時間を与えることになる。仮に犯人じゃないとしても、同じところに身内が三人も固まっていると危険だ。精神的な油断を誘い、襲われた時に咄嗟の対処ができなくなる」
「探偵が普通、たらればで語る? あんたって本当に探偵なの? どう見ても探偵のフリをした素人のようにしか思えないんだけど」
「俺がどう思われようが構わない。だが本物の刑事と決めたことだ。従わないのなら、周りから
法の番人は唯一、御手洗さんだけ。その御手洗さんに逆らうのは、短絡的に考えると犯人だけだ。実際に私も、疑われたくないから従ったと言っても否定はできない。
もちろん犯人は私じゃないし、ほとんど一緒に行動していた茉莉でもない。恒は、ちょっと分からない。だけど犯人じゃないと思う、私の直感だけど……。
「分かってください、紗良さん」
御手洗さんは言葉こそ丁寧だが、威圧的に紗良さんにガンを飛ばしていた。そうなれば、紗良さんは後を引くしかない。と思っていると、紗良さんはこんな事を言いだした。
「分かったわ。ならせめて、娘と一緒にいさせて」
誰よりも一番驚いたのは杏だった。杏は立ち上がってこう言った。
「いやだ。パパと一緒がいい」
私は黒須家の事情を知らない。けれど、声だけ聴いた。紗良さんが杏を怒鳴りつけている声を聞いた。その後に蒼佑さんがやってきて収拾がついたが、もしあのまま誰も助けに来なければ紗良さんの怒りはヒートアップしていったように思う。私は怖いから、蒼佑さんのようにはなれなかった。
「駄目よ。私と一緒に来るの」
「いやだよ。私はパパと一緒がいいよ。むしろさ、なんで私がママと一緒にいなくちゃいけないわけ」
「あんたね。誰が一番あんたのことを世話してるのか分かってるの? 家事全般やってきて、あんたのことを誰よりも分かってんのよ。パパは仕事で忙しいからそんな暇なかったでしょうけど」
杏は紗良さんの説得を諦めて、次に拓真さんを見た。彼は娘からの視線を受け止められず、目を逸らしてこう言った。
「ママに従いなさい。大丈夫、僕のことは心配しないでいいから」
「そうじゃないよ。私はパパと一緒がいいの」
誰だって杏に同情するだろう。ライオンと一緒の檻に入れられそうになっているのだから。誰だって猫と同じ部屋のほうが心地いいに決まってる。私だってそうする。だけど、杏を助けられる人はいなかった。皆知っているのだ。家庭の事情に首を突っ込むのは
そんな、誰もが口を出したいと願っても叶わない時、唯一声を上げた人がいた。
「なんで杏の言うことを聞いてくれないんですか?」
それは茉莉だった。彼女は物怖じすることなく、あわよくば
「茉莉ちゃん、杏はね。私が見ていてあげたいの。パパはさっきの出来事で疲れちゃって、ゆっくりさせてあげたいの」
「でも杏は、パパと一緒がいいって言ってますよ」
「うん、そうよね。だけど杏の面倒を見ているのはいつも私なのよ。一番心配してるの。だから側に置いておきたいのよ」
茉莉がまだ何か言いかけようとした時、杏が制するようにこう言った。
「行峯さん、もう大丈夫だから。私、ママの所にいくから」
不承不承といった様子で杏は言った。これ以上茉莉が紗良さんに反発すれば、自分を助けようとしてくれた茉莉に白羽の矢が立つだろう。杏は茉莉に気を使ったのだ。
私は杏じゃない。だから私がこう考えるのはおかしいと思うけど、杏は紗良さんに折れたのではなく、茉莉のためを思ってライオンの檻の中に入ったのではないかと思う。喧嘩をして、杏は茉莉のことを嫌いになっただろう。だけど少しだけ時間が経って、茉莉は杏を助けようとしてくれた。
きっと今まで杏は、誰からも助けてもらえなかった。学校でも、家でも。拓真さんはきっと紗良さんの尻に敷かれているから杏の肩を持てば疲れることが分かってる。
孤独の世界で生きてきて、初めて茉莉が自分を助けようとしてくれた。杏は、その事実が彼女を満たしたのだと私は思う。困難に立ち向かう気力を与えたのだと思う。根拠はない、だけど杏の目は、さっきよりも光を取り戻しているように見えた。
「分かりました。では紗良さんと杏ちゃんは、同じ部屋になるようにしましょう」
御手洗さんがそう言うと、立っていた紗良さんは席について、家族三人で再び皿に手を付け始めた。杏はほとんど食べていて、コーンスープだけが残っている。
平然とした時間が流れはじめ、私は再びエビフライを口に含んだ時、茉莉は私の袖を引っ張った。
「杏は大丈夫でしょうか」
少し行儀が悪いと知りながらも、私は口を動かしながらこう答えた。
「茉莉ちゃん。もし杏ちゃんが次に助けを求めてきたら、助けてあげて。茉莉ちゃんが助けてあげれば、大丈夫だよ」
曇りがかっていた茉莉の表情が晴れて、彼女はにこやかに笑うと、同じようにエビフライを頬張った。そして二人して海老の尻尾をお皿に戻すのだった。
食事が終わり、私達は手を繋ぎながら各々の部屋に向かった。部屋には既に恒と奏楽が待っていて、恒は腰に手を当てながら遺言をじっと見ていた。
私が部屋に入っても所かまわずと、挨拶もなしに夢中になっている。私はちょっと気まずかったから、恒に声をかけた。
「遺言の謎はどうかな。大金ゲットできそう?」
「仮説は色々立っているんだが、これといって使えそうなものはないね。残念ながら一日かけて解いても成果は無し。本当に解けるようにできているのかも分からなくなってきたところだよ」
「私と同じかあ。頭の良い恒君がだめなら、私もだめそうかな」
「そんなに自分を卑下することはない。リミーはこれまでに何度もルピナスを経験しているのだろう?」
「まあね。家が嫌いだからさ」
「嫌い?」と訊きながら恒は振り返り、ベッドの上で仰向けになっている私に目を向けた。
「私ね、家族が大嫌いなの。自分でもヘンだと思うくらいね。中学くらいからずっと家出してやろうと思ってるんだけど、お金もないし働かせてもくれない。だからこの大会を使って、一攫千金を手にして家出してやろうと思ったんだ」
「どうしてそこまで家族が嫌いなんだい。少なくとも、今日まで育ててくれたのは確かだろう」
「うん、それは分かってる。私、長女なんだけどさ。弟がいて、お母さんもお父さんも弟に期待してるんだよね。私、受験で第一志望落ちたから――ううん、それよりも前か。今も親友だと思ってるけど、
綾子は典型的な不良で、私は典型的な真面目系タイプの中学生だった。綾子は群れるのが嫌いらしく、いつも友達に囲まれてる私を毛嫌いしていた。そうじゃなくても、きっと綾子は真面目系な人が嫌いなんだと思う。
でも私は、綾子が気になって仕方なかった。学校の先生は最初こそ彼女を叱っていたようだけど、みんな諦めて綾子を叱るのを止めると彼女は自由気ままに学校生活を送るようになっていった。
だけどおかしかった。中学の不良って、煙草を吸ったりお酒を飲んだり大人びたことをしようとする。けれど綾子はそういった少年犯罪じみたことはまったくせず、言ってしまえば他の生徒と変わらない日常を送っていた。
「だから気になったんだよね。どうして不良なのに、真面目な学校生活を送っているんだろうって」
ある日、私は友達のカラオケの誘いを断って綾子を尾行した。今思えば、あの時は友達になりたかったんだと思う。何か話題の切っ掛けを掴んで友達になれればって子供心ながら逞しいことを考えていたような気がする。
彼女は繁華街の方に歩いていく。私も遅まきながら歩いていくと、中年の女の人と手を繋いでいたのを見た。私は最初お母さんかと思ったが、以前授業参観に来た時とは別の女性だったからお母さんではない。なら親戚の誰かだろうかと考えながらついていくと、二人はホテルの中に入って行った。ラブホテルだ。
私は呆然と立ち尽くした。心の動揺を隠せずに、私は冷や汗が頬を伝うのが分かった。そうしている内に酔っ払った男が私の手を掴んできそうになったから、私はその場から逃げ出して帰路についた。
「後で分かったことなんだけど、綾子はその女性の人からお金を貰う代わりに体を売ってたんだって」
「聞かなくても分かることだ。だけど、そんな話が本当にあったなんてにわかには信じられないね」
「私もそう思ったよ。家族にはバイトで稼いでるって言ってたみたい。綾子の家はね、お父さんが無職でキャバクラ絡みで借金抱えてたらしくて、いつも家計は火の車。毎日お金が必要だったらしいんだ」
「借金か。闇金から借りでもしないと、体を売るっていう発想にはならないな」
「その通り。でも当時の私はそんなこと知らないから、次の日に綾子に詰め寄ったんだ」
中学生がホテルに入ったらだめだよ。私は確か、第一声でそんなことを言った気がする。もちろん二人きりの場所で。それからは何を言ったかあんまり覚えてない、ただ一つ覚えているのは。
「その後、綾子からキスされて……告白されたんだよ」
「同性愛者だった、ということか。奇妙な話になってきたな」
「前から綾子、私のことが好きだったみたいなの。だけどいつも友達と一緒だったから言い出せなくて、だからいつの間にか不良になったんだって。私のことを嫌いになろうと努力もしてたみたい」
人を嫌いになるのは簡単なのに、好きな人を嫌いになるのは難しすぎた。綾子はそう言って、目を潤した。私はその時、一つの覚悟を決めた。
今いる友達を全員疎遠にして、綾子と過ごす決意を。
「実際、綾子と二人になる日は多かった。家に呼ぶことも。そしたらね、うちの家族が綾子と友達になるの、猛反対したんだ」
「それはありがちな話だね。親は我が子の友人さえ選別したがるというのは」
「うん。ウチもそうだった。でも私は綾子に、親友以上の感情を抱いたの。恋人じゃないけど、親友以上。だから親の反対を押し切って、私達は親友以上の関係であり続けた。そうしている内に、親は私を諦めるようになっていった。いわゆる、ネグレクトっていうのかな」
ネットにそう書いてあったから、きっとそうなんだと思う。育児放棄。私は自分の料理すら作ってもらえなくなったのだ。
「ネグレクトは今も続いているのかい」
「うん。昨日だってそう。私が島に行くっていっても、興味無さそうにして。弟が抜き打ちテストで満点を取ったら、お小遣いまであげちゃって。お父さんは最初から育児に無関心だったから、そっちはどうでもいいけど」
「――お察しするよ」
恒は遺言の謎を諦め、私の座っているベッドに腰掛けた。奏楽さんはソファに座ってテレビを見ている。バラエティ番組で、ひな壇の上に芸人達が座っていた。
「もう私は高校生。バイト禁止の高校じゃないから、一人暮らしを始めたらバイトしてやってくつもり。趣味で絵も描いてるからさ、ネットとかで依頼募集出すのもいいかもね」
「それはいい心掛けだ。創造は、人生において貴重な価値のある時間を生み出す」
無言になると、殺人鬼と同じ館にいるという恐怖が襲ってくるようになる。それを紛らわしたいから、私は本棚に近付いた。どれもこれも難しそうなタイトルの中、私は唯一読めそうなポーカーの本を取った。いつかラスベガスにいった時、ポーカーで一儲けするにはもってこいの本だろう。
確かテキサスホールデムと呼ばれるルールが一般的だったはずだ。私はとりあえずルールを覚えようとページを捲っていった。
最初は人数分に二枚のカードが配られ、ベットし、ディーラーの前に三枚のカードが表向きに置かれる。私は活字に慣れていないから、最初の一ページを読むだけでもペースが遅かった。それに私の知っているポーカーと流れが全然違うから、どうも覚えるのが難しい。ターンやリバーといった単語まで出てきて、どんどん頭が混線しそうだった。
――だがゆっくり読み進めていたせいだろうか、私はある種の閃きのようなものが頭に舞い降りてきた。
ターン、リバー。六枚、七枚。私はその本を持ったまま、遺言の前に立つ。恒の寝息が聞こえてくる、バラエティ番組の司会者が芸人の頭を叩いている。その全ての光景を後目に、私は遺言の謎と本を交互に見た。
次に私は端末を取り出してそして――。
推理を一歩進めて、戻って。何度も私は見直して、喉の渇きすら忘れさせて。血が逆流するような感覚さえ覚えた。
「嘘……嘘だ……こんな、本当に……」
「どうかしましたか、秋本さん」
「あ、ああ……奏楽さん、私。もしかしたら、遺言の謎……」
信じられない気持ちだった。スマートフォンの中に映し出された数字は、何を意味しているのか分からない。
それでも、きっとこれが――答え!
私は
すると奏楽さんも驚いたように、口に手を当てた。奏楽さんその数字が何を意味しているのか分かっていない様子だった。だか遺言に書かれていた通り、この数字は日時だった。ある特定の日時を指していた。奏楽さんもスマートフォンを取り出して、私と同じ手順を踏んだ。私が間違えていたかもしれないから。
奏楽さんと私のスマートフォン、両方に同じ数字が並んでいた。
「これは……!」
きっと誰よりも早く遺言を解いたはずだ。私達は誰かに報告するべきだと判断した。明日ではない、今だ。
本当なら外に出てはいけないと分かっていた。それでも私達は遺言の謎を「解いた」のだ。御手洗さんに知らせるべきだろうか、浅葱さんに知らせるべきだろうか。それは分からない。そもそも誰がどの部屋にいるか分からない。
私と奏楽さんは、導かれるまま部屋を出ることにした。
階段のところに差し掛かろうとした時、暗いホールから談話室の明かりが漏れているのを知った。
一体誰が中に? でも、私は直感した。あの中にゲームマスターがいるのだと。解答に辿り着いたと教え、大金を手に入れるのだ。私は家出のために、奏楽さんは語らなかったから、何に使うのかは分からない。ただ一つだけ、絶対的な真実がある。大金が手に入れば、幸せになれる。もう私は抑えきれなかった。
走ろうとした私の手を、奏楽さんが掴んだ。
「走ったら刑事さん達に知られてしまいます。ゆっくりいきましょう。大丈夫です、答えが変わることはないのですから」
「あ、あはは、そうだよね。うん、大丈夫。任せて、リミー」
自分でもヘンな日本語だと思いながら、私達はゆっくりと階段を下りて、談話室に向かっていく。
談話室の扉にできた隙間を、ゆっくりと大きくしていく。暗がりに目が慣れていたから、私は少しだけ眩しく感じた。
視覚は機能しなかった。だから代わりに聴覚が機能して、私ははっきりと声を聞いた。
「おめでとう」
その瞬間、私は祝福されたように、目の前が真っ暗になった。