第42話
文字数 6,530文字
手探りで電気のスイッチを探し、凹凸の壁を指先で感じてすぐに押し込んだ。するとランタンのような小さな豆電球が点き、部屋を映し出す。真は光のカーテンが照らし出した光景に、最初はただ息を呑むしかできなかった。誰でもそうだろう、現実錯誤の空間に思考が止まらない者はいない。
電球の真下に怜美と杏がいる。学校で使われる木の椅子に両手を縛られ、黒い布で目隠しをされ、腕には管が通っていた。透明な管で、何か液体が注射されているのがすぐに理解できた。
「怜美、杏、大丈夫か!」
真の呼びかけに真っ先に答えたのは怜美だった。
「私は大丈夫、それより杏ちゃんを先に助けてあげて!」
救助者が取るべき行動は分かりきっていた。二人とも誘拐され、縛られていたのだから縄を解くのが先決である。子供でも分かる話だった。
だが、真は二人の前で立ち止まり、たった一つの紙を前にその動作を止めた。そこに書かれている文字を読み、
あまりにも綺麗だから、書かれている凄惨な指示には似合わなかった。
「どうしたんだ、浅葱君」
小さな丸机の上に置かれていたのは紙だけではない。一本の注射器だ。
「浅葱さん、何かあったんですか? 浅葱さん」
紙にはこう書かれている。
「冗談じゃねえよ、くそったれ……!」
速効性の毒成分を二人に注入しました。
そこにある注射器を使ってください。
一人だけ救出してください。
「冗談じゃねえ! 誰だよ、こんな、惨いことしやがる奴は!」
「浅葱君、一体何が起きてるんだ。説明してほしい!」
説明を求められても、応えられるはずがなかった。二人はまだ知らないのだ。助かると思っているのだ。
注射器にはおそらく、解毒作用のある薬が含まれているのだろう。半分ずつ注射したところで二人が助かる保証はない。それどころか無駄に解毒剤を使ってしまい、二人とも失うかもしれないのだ。二つの兎をどちらも得られないように。
更に趣味の悪さを露呈させているのは、速効性の毒が注入された事実だ。悩んでいる時間は少ない。怜美がどれほどの時間この部屋に閉じ込められていたのかも分からない。だから一秒でも早く、どちらを助けるべきか選択しなければならないのだ。
「なあ怜美、一つだけ訊きたいんだが」
「どうしたの? そんなに深刻そうな声をして」
絶壁の縁に立たされた真は、何度も
「もし俺がお前を裏切っても、何も言うな。分かったか」
心から信頼できる相棒か、まだ中学生の子供か。救えるのは一人だけだ。
「浅葱さん、何があったんですか」
常に冷静だった杏は、耐えきれずにそう言った。不安という風船が破裂してしまったような声だった。
どうしてすぐに助けないのか、助けられない理由があるのだろう。二人はそう思っているに違いない、だが真が口を開かないから、悪い事が起こるに違いない。
僅かに、杏が察するのが早かった。不安に怯えていた彼女は、小さな溜息交じりの笑みを含めてこう言った。
「分かってはいました。私たちは助からないんですよね」
「違う、違うんだ。助けられないわけじゃない、だが」
真は一度そこで言葉を止めた。自分の不甲斐なさを呪いながら、不敵に笑う杏を前に膝から崩れ落ちた。
「そういうことでしたか。やっとわかりました」
怜美は自信を無くした小さな声で尋ねた、どういう事か。すると杏は間髪入れずに答えたのだ。怯える声で。
「助けられるのは、私たちの内のどちらか、ということですよね」
真の額から汗が滴り落ちた。
どちらかは助けられる。片方は助けられない。すなわち助けられなかった方は、自分が見殺しにするのと同じ。直接手を下さなくても、殺人者としては十分な行為になる。怜美を助ければ紗良は激怒するだろう。勢いのあまり真を刺し殺してしまうかもしれない。
途端、真の世界は加速した。天啓から授かったような閃きを得たのだ。
自分が直接手を下さなくても、殺人者。思えば最初から全ての殺人現場に自分がいたではないか。どうして最初の時点でこの推理に至れなかったのか。蒼佑が死亡した事件は、明らかなヒントがちりばめられていたというのに。
犯人は最初から、ルピナスというゲームを愉しんでいたのだ。
しかし今は閃きの相手をしている場合ではない。目の前の残虐な現実にどう対処すべきか考えねばならない。杏と怜美、どちらを救うか。
「嘘だよね、浅葱君。私たち、どっちも助かるんだよね」
怜美の問いに、答えられない。
もし死ぬのが自分でいいならば、真は間違いなく自死を選んだだろう。だが犯人はそこまで考えて、真に自殺する権利を与えなかった。真が出会った中で、世界最悪の殺人鬼だった。
「そっか、そうなんだ」
真は注射器を手にした後、机を蹴り飛ばした。
「出て来いよ、見てんだろ。なあ、お前は俺がここまで苦しんでるのを見て、上から
倒れた机に向かって真は歩きだし、靴底で追い打ちをかけるように机の脚を踏みつけた。怒りを解放した。
「何が不満なんだよ、言ってみろよ。怜美が何かしたのか、杏がお前を怒らせたのか。違うだろ、何もしてねえだろうがよ。殺すなら俺にしろよ、今すぐ俺を殺せよ!」
「浅葱君、私は大丈夫だから」
怜美の言葉に真は思わず振り返った。
「何、言ってんだよ」
「私は、もうこれ以上生きなくて大丈夫だから。杏ちゃんを助けてあげて」
「そんな弱っちい声で勇ましい事言ってんじゃねえよ。お前、死ぬんだぞ。死ぬってことは夢も希望も何もかも失って、本当の意味で人生が終わっちまうんだよ。それは杏も同じだ! どちらか一人しか助けられないって。そんないい加減な話俺は認めねえぞ!」
半狂乱に叫ぶ真に、杏が口を割り込ませた。
「浅葱さん、気持ちは分かります。だけど」
「だけども何もねえだろうが。お前ら二人とも強がってんじゃねえよ。死にたくねえくせに、最初からあきらめてんじゃねえよ!」
「でもどちらかしか助けられないんですよね。なら、私じゃなくて怜美さんを助けてあげてください。私はもう、家族ごっこは疲れたんです。何度も死にたいって思いました。ここで死ねるなら、私の本望ですよ」
「だから強がるなって――」
「強がりじゃないです。犯人さん、もし本当に聞いてるなら、あなたは誘拐する相手を間違えましたね」
つい数分前までは恐怖に打ちひしがれていた杏は、突然に
「ざまあないよ! 私はね、いつでも死にたいって思ってた。どうして最初に死ぬのが私じゃないんだって思っていたくらいだよ。やっと犠牲になって嬉しいとさえ思うよ。あんなクズみたいな家族と離れ離れにさせてくれて、どうもありがとう!」
犯人の狙いは真に精神的苦痛を与えながら、間違いなく一人を
「浅葱さん、助けるなら怜美さんです。分かりますよね。私は生きられるなら生きたいと思ってましたが、今は逆です。死ねるなら死なせてください」
「浅葱君、だめだよ。杏ちゃんはまだたくさんの幸せを知らなくちゃいけないんだよ。私はもう、二十歳を超えてたくさんの人達に支えられて、恋も知って……満足って言えるほど人生を満喫した。そりゃ、確かにまだやり足りない目標とかはあるよ。だけど、杏ちゃんを救えるならそんなの捨てていい。杏ちゃんを、助けてあげて」
杏は死にたいという願望が。怜美は正義としての力が。死という生物を二人が奪い合っていた。
二人がどう言おうが、奪い合おうが生死の選択を委ねられているのは真だった。怜美を助けても、杏を助けても同じ後悔を背負うだろう。人を殺めたという事実は消えない。
論理的に考えれば、杏を助けるべきだろう。怜美の言う通り彼女は何も経験していない。数多の幸福が待ち受ける人生を潰すのだ。
何を考えても、全て間違っている。
「杏、本当にいいのか」
真は苦痛を用いた声で、そう訊いた。
「何度も死のうと思ってました。私は大丈夫です。何より、犯人に一矢報いてやれるのがざまあないんですよ。今の私、すごく幸せです。このまま死ねるならそれに越した話はありません」
「だめだよ、浅葱君! 絶対に杏ちゃんを死なせちゃだめ。絶対!」
押し問答をしていても、時間制限が近づいてくるだけだ。どっちを選んでも間違いなら、いっそのこと。
「怜美、最初にいったよな。俺が裏切っても何も言うなって」
真は怜美の椅子に近付き、縄を解いていく。
「悪い。お前の願いは聞けない。約束しただろ、俺はお前を絶対守ってやる。そう誓ったんだ。俺は自分に嘘はつけない、お前にも嘘はつけない。俺は、この大掛かりなトリックの根本を理解した。真犯人も分かった。お前と一緒に謎を解く。だから、お前は生きろ」
「浅葱君、そんな、でも」
戸惑う怜美に、真は何度も大丈夫だと声をかけた。
「今は何をやっても俺は間違ってる。いや、俺は全てにおいて間違い続けてきたんだ。犯人の思惑通りにな。だから最後くらい、俺は自分の意志で自分の選んだ奴を助けたい」
縄を解き、怜美は束縛から解放された。真は座っている彼女の肩を掴み、確固たる声でこう言った。
「俺にとって、お前は大事な相棒だ。失いたくないんだよ」
怜美は目に浮かんだ雫を我慢できなかった。どれだけその言葉を待ち望んでいたか、数えきれない年月を過ごした。
「強がってごめん、本当はもっと、浅葱君と一緒にいたかったよ」
「そうか。よく言ってくれたな」
怜美は立ち上がり、真の背中に両手を回した。真は少しだけ頬を赤らめながら、彼女を受け止めた。
真から離れた怜美は、落ちていた紙を拾った。机の上に置かれていた犯人からの指示だった。
「悪いな、杏。せめて安らかな死が訪れるよう祈っておく」
「毒ですよね。きっと苦しむと分かってます。大丈夫、苦しいのは慣れてますから。一思いに殺してほしい、なんて頼みませんよ」
「そうしてくれると助かる」
怜美は紙を何度も見返していた。その手の逆側の手を取って、真は注射器を動脈に近付けた。注射器を人に刺す経験は初めてだが、インフルエンザの予防接種や採血の真似をすれば良いのだろう。簡単な話だった。
注射の針を、真は動脈に挿し込んだ。怜美は少しだけ片方の瞼を動かした。針は細いが、血管に入る時に痛みを感じたのだろう。人の体内に針を刺してる感覚に、真はぞっとした。まるで禁断の果実を口にするかのような、おぞましい感覚だった。だが、この感覚を我慢すれば彼女を救える。杏を失うのは手痛いし、紗良にどう説明すればいいのかも分からない。だが混沌の幕は一度下ろされる。その後は真犯人を追求し、終わりだ。
ふと、怜美はこんな言葉を口走った。
「この文章、変じゃない?」
注射を終え、ゆっくり針を引き抜いている時だった。彼女は紙を見ながらそう言ったのだ。
「どういう事だ」
「これ、どこにも解毒剤なんて書かれてないよ」
注射器を使ってください、としか書かれていない。毒を浄化する道具は、普段は解毒剤と表記されるだろう。
「怜美、お前。まさか……」
世界が崩れ落ちていくような予感。景色も人も、道具も色も地面も黒く染まっていく。それとは対照的に頭の中は真っ白になる。真は、確かめるように怜美にこう尋ねた。
「なあ、大丈夫だよな。何もおかしくないよな」
そう訊いた時だった。怜美の目はおぞましい勢いで見開かれ、その場に伏せた。そして胸を押さえ、激しく
怜美は唇が痺れて言葉も出なくなっていた。顔は蒼白で、体は全身が震えていた。
「しっかりしろよ、なあ! なんだよ。なんで、なんでお前が。これを打てば助かるんじゃなかったのかよ!」
だが真は気付いていた。怜美に言われなかったら気付かなかっただろう、もう少し早ければ、犯人の罠に引っかからなかっただろう。真は現実を受け入れないように、何度も怜美の名前を呼んだ。
「ふざけんな! お前、ここで死んでいいやつじゃないだろ。俺の相棒なんだよ。俺は今まで相棒なんていらないって思ってた、だけど今はっきりと自覚してる。お前が必要なんだよ、なあ! 死ぬんじゃねえって。こんな別れあんまりだろ。おかしいだろ!」
気付いた時には、既にもう終わっていた。犯人の最大の目的が達成されていた。
怜美は苦痛だけが支配したような表情のまま息絶えた。それは最初、別人じゃないかと思えた。しかし間違えるはずがない、誰がみても、正真正銘金井怜美だ。
仮死薬を注射したのかもしれないと考えた。だが、いくら気道を確保しようが、心臓に刺激を与えようが起き上がらない。
医者が一目見なくても分かる。怜美は、死亡した。その現実は信じようとすればするほど遠ざかっていくようだった。
速効性の毒を注射したとは書いてあったが、その毒で死亡するとは書かれていない。毒の種類も書かれていない。死亡しない毒を注射していたのかもしれない。
注射器を使ってください、としか書かれていなかった。一見、解毒剤が入っていると思わせるような注射器。その中にこそ、本物の即効性の毒が入っていたのだ。おそらく、トリカブトの毒だ。
最後に一人を救出しろと命令されている。今起きている出来事は指示通りだった。
「杏、怜美は死んだ」
「なんで、何があったんですか。怜美さんの毒を取り除いたんですよね。なんで怜美さんが死ななくちゃならないんですか」
「俺が
血液と共に、悔しさがせり上がる。脳が破裂してしまいそうなほどの怒りが、悔しさが彼の感情を大きく蝕んだ。
そして
力なく項垂れた真は、よろめきながら立ち上がって杏の拘束を解いた。目隠しが取られた杏は、すぐ隣で苦悶に満ちた表情で横たわる怜美を目にして小さく悲鳴をあげた。その杏の手を掴んだ真は、決意を握りしめながらこう言った。
「真犯人を暴きにいくぞ」
「本当に分かったんですか? 犯人の正体が」
「分かってる。犯人は俺たちの中にいたんだ。もう一人の共犯者も分かった。犯人はこの殺人をルピナスのゲームになぞらえて遂行した。俺はこの推理を確信に変える」
「どうやってですか。ここには証拠も何もないんですよ。御手洗さんも死んじゃって」
「証拠はある。最初からあったんだ」
真は部屋を出て、二階へと階段を下りる。威嚇するように大きく足音を立てながら向かった先は、真の部屋だった。
――思えば最初から今までずっと、この部屋にあったんじゃねえか。
鍵は開いていた。真はドアノブを握りしめて力強く扉を開き、中に入った。そして真っ先に歩き出したそこには、何ら変わらないテーブルがあった。その上には最初からそこに置かれていた一枚の封筒。真はその封筒を手にした。
「その紙がどうかしたんですか。自分の役職が書かれてる紙ですよね」
「ああ、そうだ。この中に入ってる紙が、全てのトリックを説明する証拠だ」
真は
そして役職の書かれた紙を取り出して、自分の推理が正しいことを証明した。そうなれば紙は用済みだ。真はそれを机の上に放り出した。
本来ならば、他人の役職を知るのはご法度だ。だが杏はそのルールを破り、全ての謎の答えに彼女も行きついた。
紙には赤い文字で、見た者を震え上がらせるような恐ろしい文字でこう書かれていたのだ。
「犯人」