第36話
文字数 4,519文字
談話室の扉が閉まる頃、階段から誰かが降りてくるのではないかと思えて仕方ならなかった。本当は自分が犯人で、知りもしない共犯者が登場し、自分達を殺すのではないかと。だが真は怯まなかった。昨日蒼佑が遺体となって発見された時点で、死の覚悟はできていたからだ。
怜美はどうだろうか。彼女には目標があった。それは探偵とはなんら関係のない人生設計。しかし、豊かで美しく、可愛らしい色彩で溢れた設計だ。それを叶える前に死ぬのは、彼女は望まないだろう。
ぬいぐるみ職人になる、と怜美はいつか語っていた。自分だけの喫茶店を開いて、料理を作りながらお店で独特のぬいぐるみを売るというのだ。
「外に連れ出してしまってすみません。少し冷えますね」
亜里沙は堅苦しい表情で、妙に縮こまった様子で言った。彼女の異様な声音から、怜美も真も肯定の言葉が出なかった。彼女の言うように、確かに寒気が肌を刺激する。だがそれ以上に、亜里沙は今にも崩落するのを堪えるような感情を持っていた。直感的にそう感じられた。
真の予想と反して、階段からは誰も降りてこなかった。
「あの、もう――私は限界です」
一体何が限界なのだろう。この殺人鬼のいる館にいる現実が、婚約者を殺されて抑圧してきた
しかし、亜里沙が言った言葉はそのどれにも該当しない衝撃の言葉だった。
怜美も真も、一度は聞かされていた。だがそれは「かもしれない」という憶測だけで彼女の口から語られるとは思えなかった事実だ。そして理解する。談話室で話すわけにはいかない理由を。
亜里沙はこう言ったのだ。小さな口で、小さな声で。しかしその言葉は何度もホールを反響し、同時に真の頭にこびりついたのだった。
「私は、共犯者です」
ホワイトノイズが強調される。五感が鮮明になって、全ての音や館の匂いを感じる。それは現実世界と融合した証拠だった。今まではウィンチェスターが支配した世界でただ生かされていただけ。だが亜里沙の告白によって、幻想に塗り潰された世界に
「どういうことですか? 亜里沙さんが、共犯者なんて」
怜美は理解に苦しむ様子を見せた。
午前中に拓真から、亜里沙が犯人かもしれないと言われた時点で真は彼女が犯人、もしくは共犯者だった場合の推理をし始めていた。だから、彼女の告白は衝撃ではあったもののすんなりと受け入れられたのだ。
「一日目の夕方。花瓶に水が注がれていないと気付いたのはあなただったな。若杉さん」
「はい。あれは犯人の命令です。午前中に水を捨て、夕食時に私が気付いて水を入れるように
もし亜里沙が共犯者なら、文世はまだ生きている可能性がある。化粧室で亡骸となっていたのは文世ではない可能性だ。誰も知らない顔なのだから、亜里沙が文世だと言えば全員の中で亡骸の名前が決定する。
婚約者でないならば涙が出ないのは普通だ。あの亡骸は文世ではない、別人だ。
「それ以外はどういう命令を受けていたんだ」
「細かな指示はありませんでした。聞き込みをされたら嘘と本当のことを混ぜながら話せと。私が関与していたのは夕食の手紙の件と、第二の化粧室での事件くらいなんです」
「どうして今、俺達に話したんだ」
真は知っていた。それでいて訊いたのだ。彼女の真意は汲み取るだけで終わらせたくなかった。
「辛かったんです。とても。人が死んでるのに、犯人の肩を持つのがずっと辛かったんです。死んでしまった方々に、本当になんて言えばいいのか……
一般人の視点で想像すれば、人が人を殺めるという行為がどれほど難しいかが分かる。それは物理世界の話ではなく、精神的な構造上の問題だ。追い詰められた人間は理性の融通がきかなくなり、最終的に人を殺める行為に走りもするだろう。だが何不自由なく暮らしてきた人間が同族を殺めるのは簡単ではない。亜里沙は淑女のように育てられ、年齢も早い内から婚約者が見つかり、順風満帆な生き方をしてきたはずだ。
亜里沙は殺人こそしていない。だがそれと同等の罪を感じている。誰にも話せずに、相談もできずに。どこかで文世が生きているなら相談もできただろうが、亜里沙が文世に明かさなかったのは、文世がこの島に来ていないからかもしれなかった。
悲願するような亜里沙の告白を聞いた怜美は、静かに言った。
「いいんだよ。若杉さん。本当に悪いのは犯人なんだ。若杉さんも弱みを握られて、仕方なく手伝ったんだよね」
戸惑うようだったが、亜里沙は頷いた。それなら、と怜美は笑みをかけながらこう続けた。
「犯人が悪い。そんなに責任を感じる必要はないんだよ」
「でも私が参加していなかったら、そもそもあの手紙さえなかったら悲劇は起きなかったんです。核ミサイルのスイッチを押したようなものですよ」
「ううん、それは違う。若杉さんに殺人の意志はなかったはずだよ。仕方なく命令を実行したんだから」
ボタンを押さなかったら物理的な死か精神的な死が訪れる。そう脅された人間はボタンを押すだろうか。亜里沙は核ミサイルに例えていたが、拳銃のほうが喩えとしては適当だった。頭に銃を突きつけられて、お前の持っているトリガーを引かなければお前が死ぬと言われれば、引いてしまうだろう。トリガーを引いても対象者が生きてさえいれば、助けられもできるだろうからだ。
「若杉さん、私達をここに呼んだっていうことはさ。犯人が談話室にいるんだよね。知られたら自分の身が危ないんだよね……教えて、犯人って誰なの?」
犯人の名前を口にすれば、亜里沙は解放される。この狂った殺人劇の役から降りられるのだ。こんな精神になるまで窮した彼女ならば、犯人が誰かは簡単に教えてもらえるだろう。英に直接言って、犯人を拘束してもらえばいいからだ。今後命令を背いたとしても、犯人から手を出される心配はなくなる。
今がチャンスだった。亜里沙にとって償いの機会であり、今いる生存者達が生きて帰られるのだ。これ以上の死を亜里沙は望まないだろう。
亜里沙は禁断の果実を口にするかのような慎重な表情をしながら、口を開いた。そして、こう言ったのだ。
「分かりました、犯人の名前を明かします」
途端、真は喉の渇きを感じた。思えば水分をしばらくとっていない。今が何時何分なのかもよく思い出せない中、真の耳はその名前を確かに聞いた。
「犯人は――佐伯奏楽さんです」
思えば、彼は最初から独特の雰囲気を纏っていた。それは精神病患者特有の雰囲気にも似ていて、殺人鬼の色にも近かった。
そうだ。どうして気付かなかったのか。今回の殺人で一番被害を被っていないのは奏楽だけなのだ。単独で参加し、知っている人間もいない。いや……オンラインカウンセラーだったのであれば、ほぼ全員と接点を持ってはいる。しかし彼が冷酷な殺人鬼ならば、相談事を持ちかけてきた相手の命を奪うなど造作もないだろう。
蒼佑殺害のトリックや化粧室でのトリックは分かっていないが、それを推理している時間が惜しかった。一刻も早く、彼を隔離しなければならない。
「怜美、若杉さんを頼む。側で守っていろ」
「え? わ、分かったけど。何をするつもりかな、浅葱君。まさか一人でとっちめにいく訳じゃないよね」
「普段頭を使ってないからか、こういう時は察しがいいんだな」
怜美は苦言を返そうと真を見たが、真の表情を見て息を呑んだ。真の目に浮かんでいたのは怒り、ただそれだけだったのだ。
真は大きな音を立てて談話室の扉を開けた。中にいた全員が真に注目する。真は奏楽を探した。
奏楽は窓際に立って、涼しい顔立ちをしながら窓の外を眺めていた。窓を開け、潮風に当たっていたのだ。真は苛立ちの足音を立てながら奏楽に近付き、驚く彼の手を掴んで力を込めた。
「佐伯奏楽。てめえの計画ももう終わりだ」
「な、なんのことでしょうか」
「とぼけんじゃねえ! 若杉さんから聞いた。お前がオンラインカウンセラーで、今回の事件の犯人なんだってな!」
奏楽はそこまで言われても凛々しい顔を崩さなかった。先にその
「浅葱さん、それは本当ですか」
「本当です、刑事さん」
開かれたドアから入ってきた亜里沙が、迷いを断ち切るようにそう言った。彼女はもう罪を償った。だからもう声を潜める必要も、奏楽からの暴力的脅迫に怯える心配もないのだ。どういう脅迫をされていたのか、その理由は分からない。
だが奏楽が犯人であり、純情なか弱い女性を利用して自分の計画を進めていたのは事実だ。そして自分以外の生存者同士を疑心暗鬼にさせ、誰よりも疑いを向けられないように仕向けた。
「浅葱さん、こうも考えてみてください。彼女に指示を下している人間が、私の名前をあえて使って私を犯人にさせようとしている。そうは思いませんか」
「見苦しいぞ。この事件で一番損をしていないのはたった一人、お前だけなんだよ。皆、誰かしら大事な人を失ってる」
「それは貴方も同じではありませんか、浅葱さん。金井さんは生きている。貴方は探偵だと謳っているが、所詮は個人事務所のアルバイト。誰だって犯人になり得る状況なら、貴方だって犯人になり得るはずですよ」
「焦ったな。俺はここでは、個人事務所のアルバイトなんて自己紹介は一言もしてない。それなのに、お前はよく知ってたな」
それは自分自身がオンラインカウンセラーであると語るようなもの。初めて奏楽の表情が苦々しいものになった。
「違う、私は犯人じゃない! 浅葱さんならちょっと調べればネットにだって出てくる!」
「アルバイトって情報は出てこねぇんだよ。御手洗さん、こいつを隔離するぞ」
諦めたように奏楽は何も言わなくなった。英が近付いてくる間、真は逃げないように腕を掴みながらこう言った。
「自分よりも立場の弱い人間を脅して、人の死にも何も思わず平気で人を殺せるような人間がお前だ。俺は絶対に許さない。お前という人間を、絶対に許さない!」
死んでいった者達の恨みが集積しているかのように、真の目は鋭くとがっていた。視線で人を刺し殺してしまえるほどの力が、真の目には込められていた。
「浅葱さん、それはやめなさい!」
英が止めようとしたが、真の怒りは頂点に達した。真は掴んでいた手を離して、拳で奏楽の頬を殴ったのだ。
痛みの衝撃が奏楽の視界を揺らし、窓枠に凭れ掛かるようにして彼は地面に沈んでいった。