第26話
文字数 5,158文字
部屋の中には紫苑と茉莉の姿があり、紫苑はコップ一杯の水を英に差し出した。簡単な礼を告げて水を飲みほした英は、鞄の中に入っていた銃を取り出して拳銃用のホルスターを纏い、身支度を整えた。
茉莉はもうぐっすり眠っている。英は彼女を起こさないように紫苑に告げた。
「夜中の一時には戻ってきます。もし僕が戻らなければ、事前に決めた通り二人は部屋を移動してください。場所は浅葱さんのいる部屋です。良いですね」
「承知しました」
冷淡な反応がかえってくると、英は息を吐くついでに笑いながらこう言った。
「殺人事件があったっていうのに冷静ですねえ。この館で何が起きるのか、まるで知っているかのようだ。冗談半分で言いますが、紫苑さん、あんたまさか犯人ってわけじゃないでしょうね」
「職務を遂行しているだけです。何が起きても動じず、与えられた役目をこなすのが使用人の心得だと理解しておりますので」
「ははあ、そりゃご立派で。もしかしてデザイナーチルドレンの一人ですか」
デザイナーチルドレンの特徴として、与えられた仕事は状況が目まぐるしく変わろうとも当初の予定から逸脱せずに全うするというものがある。半分ロボットのような彼らは、仕事の時となると一般人とは大きく異なる反応を示すのだ。
英は何度か被疑者となった彼らと対峙したことがある。仕事の時は何かにとりつかれたかのように淡々としているのだが、それが取れると普通の人間なのだ。
だから紫苑もデザイナーチルドレンなのだろうと推測したが、英のそれは間違っていた。彼女は首を横に振ったのだ。
「私は人の痛みに鈍感です。悲惨なニュースが流れていても何も感じなければ、友人が結婚しようとも祝福しようとは思わない」
「蒼佑が死んだ時、この館のどこかには犯人がいると分かったはずです。そうなれば自分が殺されてしまうかもと思うのは普通の人の感覚だ。それでも何も思わなかったと」
「最初は動揺しましたが、受け入れました。そもそも私は死を恐れてはいません。無になるだけです。天国も地獄もない。永久に醒めない眠りにつくだけならば、怖がる必要もありません」
茉莉がベッドの上で寝返りを打った。静まれば、安らかな寝息が聞こえてくる。これ以上の話は無駄だと思い、英は黒い外套を纏って外に出た。
不気味なほど静まり返った廊下だ。昼は鳥の鳴き声や参加者達が時折聞かす笑い声で修飾されていたというのに、遠くから聞こえるのはさざ波の音。現場には慣れている刑事の英でも、どこか不安な感情が湧き出てくるのを感じていた。
魔術師ウィンチェスター。このゲームの主賓だ。事前にルピナスというゲームが織りなす世界について調査していた英も、彼の概念は知っていた。ルピナスの界隈では都市伝説のように語られる彼だったが、英にはそれ以上の品格を感じていた。参加者達は架空の存在であるウィンチェスターのカリスマ性に惹かれているのだ。
茉莉もその内の一人だった。英がウィンチェスターの名前を出したら、彼女は眠るまで語っていたのだから信奉は留まることを知らない。茉莉とてベッドの上に書かれた奇妙な絵を知らないわけでもないだろう。残虐な絵を前にしても、彼女の敬愛とも呼べる感情が揺れ動くことはなかった。
犯人の目的が分からないのは、ウィンチェスターの名前を騙ったことだった。
そもそも精神病院から脱走した人間だ。患者の思考を探ることは無意味に違いない。アインシュタインはどういう思いで光の量子論を提唱したのかと一日中考えるのと同じことだ。ただ言えるのは、犯人の結果によってウィンチェスターの名前に汚点がつくことは間違いないし、今後はルピナスというゲームも廃れてしまう可能性が上昇しているということだ。
殺人が起きたゲームということで、世間の認知は大きく変わるだろう。警察の規制が入る前に、人々がゲームから遠ざかるはずだ。一部の熱狂的なファンを除けば、軽い気持ちで参加していたライトプレイヤーは冷めた目で非難することになるだろう。
英はルピナスを気に入っていた。刑事としてではなく、御手洗英として。プレイヤーとして参加した経験はないが、事件さえ起きなければいつかは輪に入っていただろう。
蒼佑の遺体が置かれている部屋の前にきて、英は耳を澄ませた。犯人が細工をしているかもしれない。しかし、物音は何一つ聞こえなかった。
物音が聞こえないと分かってからも、英は扉の前に立ち続けた。一人で見回りをしている最中なのだからいい加減離れないといけないとは分かっていながら、それができなかった。
やがて小さく口を開いて、言葉を落とすように言った。
「ごめんな、蒼佑」
幻覚剤を投与されたことで、普通に生きていれば経験しないほどの恐怖に襲われたであろう。部屋中で暴れまわるほどの恐怖に見舞われたのだ。決して安らかな死とは言えない。
刑事になった時点で、この島に訪れた時点で死は覚悟していた。英は蒼佑の口から聞いていた。自分が死ぬかもしれない、その時は後はよろしくお願いしますと、いつもの笑顔で。
英は左右を見て誰もいないことが分かると、二つだけ目から雫を垂らした。一つは自分のために、もう一つは蒼佑のために流した。蒼佑とは長い付き合いだった。本当ならば、二滴では足りない。だが今は事件の真っ只中なのだ。犯人の
島から帰ったら、しばらく酒が必要になるだろう。英はふと、蒼佑が勧めてくれた年代物のワインが家にあることを思い出した。
「御手洗さん?」
背後から女性の声が聞こえて振り返れば、立っていたのは怜美だった。
探偵の助手だ。九時以降は外に出るなときつく言われているだろう。それなのに廊下に立っている。異常が起こったことは、彼女が何かを語るまでもなく分かることだった。
「何かありましたか、大丈夫ですか」
怜美は服の先を指先で
「廊下で足音が聞こえて後を追った真君が、戻ってこないんです」
「足音が聞こえたのは何時くらいか分かりますか」
「九時ニ十分前後でした」
「浅葱さんはどこに向かったか分かりますか」
「階段を下りて行ったと思うので、談話室か食堂です」
真は足音が罠だと考えなかったに違いない。犯人が内部犯であることを考慮した場合に備えて誰がどの部屋で休んでいるか知られないようにサイコロで決めたが、これが外部犯だったならば意味を為さない。
犯人としては自分が見つからないために探偵や刑事をいち早く排除したいだろう。真の部屋の前を通ってわざと誘い出し、最悪真を殺害している可能性だってあるのだ。
「怜美さん、あなたは部屋に戻っていてください。浅葱さんは僕が探します」
「私も探します、迷惑にならない程度に」
「申し出はありがたいんですけどねえ、ここは僕一人で行かせてもらいます。失礼なことを言うようですが、あなたは一般人です。いくら探偵の助手とはいえ、刑事事件に介入するのはあまり喜ばしいことではない。ミステリー好きである怜美さん用に言うならば、このゲームの参加者は紫苑さん含めて全員が被疑者です。僕が生きたまま浅葱さんを連れて帰ってきたら、少しは僕の信頼度っていうのも上がるでしょう」
警察手帳を見せた時点で英と蒼佑が犯人である可能性は極めて低いことは怜美も分かっているだろう。しかし万が一警察手帳が偽物で、患者の話もでっち上げだとしたならば。探偵も刑事も、全ての可能性をひとしきり考えなければならない。
英が犯人で蒼佑と共犯ならば。真はもちろんのこと考えていただろう。
「要するに、私が邪魔っていうことですよね」
怜美は落ち込む風もなく、依然変わらない態度でそう言った。
「邪魔というよりも、あなたの安全を守るためですよ。では怜美さん、無線機代わりに電話をつけっぱなしにしておきましょう。電話番号を教えてください。それで手を打ちましょう」
不安を解消する手段として、ただ待つよりも何らかの形で英と繋がっていたほうが、怜美も落ち着くだろう。英としても、不安の頂点に達した彼女がどういう行動をとるのか予測できない点からの提案だった。
怜美はすぐに端末を取り出して互いに電話番号を交換すると、英が怜美に電話をかけて二人は別れることになった。
「大丈夫ですよ、怜美さん。浅葱さんは僕が必ず見つけますから」
部屋に戻ろうとする彼女に向かって気休めの言葉をかけたが、怜美の不安は晴れている様子がなかった。
イヤホンを接続した端末を胸ポケットに入れて、英は片耳だけ外しながら捜索を開始した。階段を下りた先にあるのは食堂と談話室と男女別の化粧室、使用人室。表へ出たパターンも考えなければならないが、英はひとまず全ての部屋から探すことにした。
時計回りに、まずは談話室から――そしてドアノブに手を触れて捻った時、鍵が開いていることに違和感を覚えないはずがなかった。
一階の部屋に鍵をかけたのは英だからだ。紫苑同伴のもと、マスターキーを借りて施錠した。マスターキーはその後紫苑に返却されているが、紫苑と同室していたためマスターキーを使った解錠は不可能だ。
ならば使用人室にあるキーボックスから鍵を奪ったことを怪しむべきだが、今優先すべきなのは真の安否状況の確認だ。
イヤホンから、怜美の不安そうな声が聞こえてきた。焦る気持ちを抑えようとする息遣いの中で、彼女はこう言った。
「真君は見つかりましたか……?」
「見つかっていません。でもおかしいんですよねえ、談話室の扉に鍵がかかっていませんでした。浅葱さんはもしかしたら中に入った可能性があります」
明確になった犯人の痕跡。真と英が部屋の中にいた時に犯人が外に出たことを証明するものだった。
談話室の扉を開け、英は銃に手を添えた。部屋の中は暗かったから、懐中電灯を取り出して中を探った。
テーブルの上に妙なものが見えた。そこにライトを照らすと、その妙なものが浅葱真であるとはっきりした。蝋人形のように動かず、仰向けに倒されている。英は息を呑んだ。
部屋の中にいる狼に睨まれているかのような心臓の高ぶり。それどころか狼は、その心臓ごと握りつぶしそうな狂暴で
英は頭の中で数を数えた。ゆっくりと動いていては、自分を的にしろと言っているようなものだ。犯人が中に潜んでいるならば、そして銃を持っているならば、鈍足は格好の的だ。部屋の中は暗いが、暗がりに目が慣れた人間ならば月明りだけで人を認識することが可能だ。
英はゆっくり、頭の中の数字を減らしていく。五から始まり、四。三。
刑事になって初めて、自分が死と隣り合わせなのだと実感する。抗う術のない恐怖心に駆られる。頭の中の数字がゼロになった途端、自分は死ぬのではないかと思わせる。
二、一。
だが、覚悟を決めねばならなかった。何かが起きれば怜美がすぐに駆け付けるだろう。そうなれば犯人は顔が割れ、行きつく先はゲームオーバーだ。むしろこれは、犯人に対する罠だ。
ゼロ。
英は転がり込むように部屋の中に入って、立ち上がると、駆け足で部屋の電気をつけた。
「御手洗さん、何かあったんですか? 大丈夫ですか、御手洗さん! 返事をしてください!」
片耳に、怜美の
部屋の電気を点けた英は銃を抜いて全方位に構えながら、死角を洗いざらい調べた後に怜美の声に応えた。
「大丈夫だ、何でもありません。犯人の存在は確認できず」
「よかった……。真君はいますか」
「今から調べます」
調べるまでもなく、真は机の上に寝かせられている。だが死んでいるか生きているかの判定はできなかった。英はゆっくりと真に近付き、心臓に耳を当てた。
心臓は動いていた。真は生存していたのだ。
「怜美さん、浅葱さんは生きてます。犯人に襲われて倒れていますが、心配いりません」
「本当ですか! よかった、本当によかったです」
真に何があったのかを聞かねばならない。英は真の名前を呼びながらその体を揺さぶった。
すると、彼の目が僅かに