2-11 終戦(その1)

文字数 1,230文字

昭和20年3月9日、工場から帰った私は、二階の部屋で通勤服のまま床に入っていた。当時は空襲を警戒して、全ての人が寝巻きに着替えて床に入る事はなかった。この夜にあったのが、あの東京大空襲である。

警報が鳴ったあとは一階も二階も全て開け放し、祖父母を防空壕に入れて、私は外の警備である。土手下で橋のそばであるが、幸いにもにもこちらに爆弾は落ちず、大空襲は対岸で起きていた。家の前がまるで映画のワイドスクリーンの様になり、夜にも関わらず、右から左まで目で見渡せた。火の手は目一杯に上がり、あっちこっちが一面火の海になるまでにそう時間はかからなかった。

こうしてB29-300機による空襲は、3月10日の明け方まで続いた。家の裏には石鹸工場があったので、もしここに一発落ちていたら、周辺は激しく燃えていただろう。すぐ目の上を空の弾倉を開けたままで帰って行くB29を歯ぎしりして見上げるだけだった。

やがて夜が明け始めた小松川橋の上には、亀戸方面から逃げて来る人の波でまっ黒になるくらいだった。それが次の日は、反対に亀戸の方へと人の流れが変わる。離れ離れになった肉親捜しか、焼け跡にでもいくのか、この光景はしばらくの間続いていた。

さて私だが、空襲を免れた叔父の家にも十数人罹災者を預かった。彼らの面倒を見る合間に、どうしても確認をしたいので自転車で深川に行ってみる事にした。亀戸9丁目の中川新橋まで出て見たが、道路は人で一杯の状態。しかも電車もバスも焼けたまま止まっている。

途中、自転車は道路の熱でパンクしてしまう。仕方無く帰る事にした。道を行き交う人は、みんな顔が真っ黒で誰だか分からず。服はボロボロに焼けこげ、本当に地獄画を見る様であった。

「教育とは恐ろしい・・」こんな物凄い光景を見ても「キット仇を取ってやる」という闘争心が起きたものだった。

次の日、今度は土手伝いに深川に向ってみた。砂町に降りる葛西橋の下にはもう囲いをして、人が住み始めていた。

境川付近に多かった馬車屋さんの馬も往きには沢山死んで横たわっていたが、帰りにはその肉のほとんどが無くなっていた。

今の江東運転免許試験場付近にあった会社の寮も全焼していた。

近所の堀に浮かんでいる丸太は水面に出ている部分が完全に焼け、平らになっていて、いかに火の勢い強かったかがよく分かった。

永代通りには死人の山がいくつも出来ていて、それを数台の警察のトラックが積み上げていた。

その時、道路脇に掘られた防空壕の中で、うめき声が聞こえた。

私はさっそく警官に協力して数人の生存者を救出した。

豊住町の工場は全焼していて、材料倉庫の金属加工材だけがキチンと積まれたままだったのが眼に残った。焼け残った入り口の門に、何で書いたのか”榊原無事”の黒い字が読めた。

今の東陽町の賑わい、イースト21、区役所本庁あたりを見ると、その時の風景が滲んで見えてしまうのは私だけだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み