3-17 妻の戦い(その2)

文字数 887文字

昭和35年にクモ膜下出血で倒れた妻は生死をさまよい、実に2ケ月にも渡る人院生活を送ったのだった。

妻には毎月4,5日は寝たきりとなる後遺症が良くなるなら、治療は何でもやってみろと言っていた。

循環器、脳外科、内科、整形外科、整体、針灸、最新の科学治療、漢方薬、果ては紅茶キノコなど、近所の友だちから話を聞いて、新聞や本で読んで、ラジオで聞いて、医師から紹介を受けて、様々な治療を試してきた。

発症から相当な期間に渡りこれが続くのだが、妻の病気を治すことが家族の、特に私にとっては大切な人生に目標なのだ。

新しい治療を始めると、始めた1-2ヶ月は体調が良くなり、これはと期待するのだが、その後はすぐに元に戻り、有効な治療であったとは言いがたい結果となるのだ。

そんなことが数えきれないほど過ぎて、 17年を経過する。

昭和52年になると今度は妻がパン屋をやりたいと言い出した。地域の方との関りになるので、店側の都合でおいそれと休むことができなくなる。始めはこうしたことを伝えて開店に反対していた。ところが妻はこれをあきらめなかったのだ。

妻はどうしてもやりたいの一点張り。

これまでの間に自宅の前に土地を買うことができていたので、貸し駐車場にしていた。そこをつぶして店を新築してのパン屋を計画した。

自分が病んでいる時よりもそばでその苦しみに、ひとり耐えて頑張っている妻の姿を見ている事の方が辛かっのだったが、これをやりたいと言ってからは、寝込むことが減ってきた。妻は毎日どうすれば開店に近づけるか、自分でできることを考える日々が続いたのだった。

地域の友人たちの支援もあり、とうとう妻の意思を尊重して店の建築準備に入ったのだ。

話は進み、山崎製パンと事業契約を締結することができ、 ヤマザキYショップとしてついに、「パンとお菓子の店 ロッキー」の開店にこぎつけたのだった。

事業開始への期待感か、妻の体調はすこぶる好調な期間が続いたのだった。

こうした妻のやる気とやりがいが、これまで18年間も続いたクモ膜下出血の後遺症を、ついに克服したのだった。
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登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

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