1-2 生い立ち

文字数 1,216文字

~時は昭和のはじめ。貧乏ではあるが活き活きと生きてきた少年がいた。名前はのぼると言う。のぼるが見た時代とは~

私の物心がついた頃の思い出として、江戸川区西小松川の2階建て四軒長屋の西側の家に住んでいたことを思い出す。

祖父は鉄工所の職人であったが、40代から神経痛がひどくなり、祖父の兄の鉄工所(M製作所 元本所区)に通うことも出来ずに家に居る事が多かった。

祖母は父が中学公学校の校長だったため岐阜にいる頃は、いわゆるお嬢さま育ちだったらしい。東京に出てきて一度結婚するが、数年後に子供3人を引き取って離婚する。そのうちの一人が小松川の私の叔父である。祖母は結婚していた時に覚えた和裁の内職で生計を立て、祖父と私の面倒を見てくれたのであった。
後になって子供相手の駄菓子屋を始めるが、これが近所で評判の店になる。お客様に可愛いがられて店も結構繁盛し、私を育てるのにとても助けになったと話してくれた。

話は戻るが、この2人は関東大震災の後、名古屋に引っ越して昭和区に小さなお茶屋を開く準備をしていた。ようやく開店が近くなった頃に、急に父良之助の死去の知らせを受け、店はそのままで東京へ戻ったとの事だ。その店がその後どうなったのかは知らない。

さて、私の妹の事であるが、母はすでに実家に帰るつもりで、父の死後に腹の子の養子先を早くから捜していたとの事だ。とにかく出産するとすぐ、江戸川区の旧葛西村で開業医をしている方のところに貰われていった。乳母車に乗せられて小松川の家に来たのを見た記憶がうっすらと残っている。

それから私たち兄妹の再会は、そのあとに26年もの歳月が流れるのである。

さて、開業医ご夫妻の事であるが、結婚後7年も子宝に恵まれず養子を捜していたとの事である。妹が来て間もなく、一家は満州に行ってしまったとの事。妹に会いたくても会えなかったはずである。
ご夫妻とお会いして分かったが、お二人共優しい人で、妹は実の子のように何の不自由もなく育てられた。ご夫妻は後から実子2人に恵まれても一度として変な素振りも見せず、女学校まで出してくれたとの事である。一家は敗戦後に満州から日本に帰り、妹は結婚のために戸籍をとって初めて自分を知ったそうで、その時はショックで3日3晩も食がのどを通らなかったということを後で聞いた。その妹も今では結婚をして娘夫婦と一緒に仲良く横浜に住んでいる。

プロローグで触れたことで今回分かったことがあるので、ここで記しておこう。
私の母のその後の事である。

私達兄妹を祖父母に預けて実家に帰った母は、昭和8年7月に新潟県の旧古志郡栃尾市の方と再婚したが、その月の末にまた東京に戻ってきて今の墨田区石原に転居した。その後、昭和20年3月10日の東京大空襲で夫婦共に死去したと分かった。

従前から気にしていた事がはっきりした訳である。ここで改めて母のご冥福を祈りたい。・・・合掌・・・
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登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

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