1-10 城東電車

文字数 849文字

いつから走っているのか知らないが、私が物心ついた時には、家から割と近くに西荒川という城東電車の終点があった。

「ガタガタの電車、でも上等電車」なんて良く言っていた。

錦糸町の白木屋から出てここまで来ていた。途中の亀戸水神森辺りで南砂町の方へ行く路線と分かれていたが、前の都電7号線とあまり変わらないコースをのんびりと走っていた。今では違反でできないが、路面のレールに釘を置いて潰したりして遊んだ、結構思い出の多い電車である。

でも、この電車にも嫌な思いもある。朝寝坊をして慌てて出掛けた祖父が、乗り損なって、電車に引きずられ、大怪我をしたのである。この事故が原因で祖父は勤めを辞める事になったのである。併せて神経痛の悪化も伴って家に閉じこもる事になってしまうのである。

さて、この終点近くが結構賑やかな所であった。並木菓子と言うおこしを作っていた菓子工場があり、線路のすぐ脇には泡盛酒場。連絡バスの停車場、青果市場、そのすぐ横は新町商店街もあった。
私も10才を越えたあたりからこの電車には良く乗った。祖母の弟のいた墨田区太平町の事務所に、お使いに行く為である。ついでに実家の墓参りもできた。

その頃は錦糸町駅北側に貨物の駅があり、今の楽天地周辺は、旧東京汽車会社の跡地であり、まだ空き地であった。ロッテ会館のあたりは線路を跨ぐ高架橋があり、その上で汽車が吐き出す石炭の煙を被るのが楽しみであった。何台か過ぎると顔が煤けた。

私は14歳で見習工として寄宿舎に入ってからも、南砂町から水神森に出て、西荒川へと帰ったものである。寮生活に入った最初の休みに、この電車で祖父母の元に帰った日、二人の顔がまともに見られず、まっすぐ台所に行き、手ぬぐいに顔をうずめた記憶がある。

この電車には敗戦後もお世話になるが、白木屋終点のこの電車も都電に買収され姿を消していった。荒川の川向うにあった東荒川〜今井間の電車には、古い型のイギリス製の電車が使われており、さらにノンビリと走っていた。
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登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

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