1-18 台風・地震・津波

文字数 882文字

戦時色の濃い当時は、今の様に地震や台風の情報が早く伝わらなかった。朝の天気でその日の計画が決められた頃である。

「風が出てきたから、嵐がくるかも。」
と戸締まりの点検をしたものだった。

何年頃だったか地震があった。その時、川に行っていた祖父が、青い顔で戻ってきて、
「さっきの地震で津波が来るかも知れない」と言う。

時々大雨が降ると、床下に水が入る家であるが、津波となると事が違うらしい。あまり普段家の事をやらない祖父が、低い所の物を二階に上げ始めた。しばらくして
「水だ。水だ」の声があっちこっちで聞こえ始めた。

「荒川の水の引きがいつもと違う」

と祖父が近所に話して回ったらしく、対応は早かった。見る見るうちに水が家に入って来た。しかし床すれすれで増水が止まった。
(筆者追記:これは昭和8年3月の三陸沖地震によるものかと思われる)

次の日は、学校は休みになった。浸水していた水が引きはじめたが、逆井の第7女学校(小松川高)の前の金魚池にも水が入り、魚が流れ出した。近くのドブ川はどこでも金魚が一杯いた。子供の私たちは数日の間、金魚取りで楽しい思いをした。取った金魚の大半は池に返したが、汚水に入ったものや持ち帰った金魚は2、3日で死んでしまった。

嵐の事を台風と言うようになったのは戦後だと思うが、下町育ちの私たちは、風よりも出水の方が怖い。何しろ、台所でも便所でも容赦なく水は入って来る。

しかしふだんは悪ガキと呼ばれているが、我々と水との関係は違った。

酒屋の裏の原っぱに集まり、流木を集めて筏を作る、竹馬の竹を竿代わりの筏遊びである。酒屋の前の養鶏所の復旧の手伝い等もお手の物だった。

ふだんは悪ガキでもこんな出水時には重宝がられた。美人横丁(そんな名前の道路があった)のお姉さん達が汚れるのが嫌なので、そのお姉さん達からお使いを頼まれた。ちょっと離れている春日町通りまでにも何回も行かされた。もちろんお駄賃はガッチリ貰えた。

でも物心がついてから小松川を離れる迄の間では、家を飛ばされるような嵐は記憶には残っていない。
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登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

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