2-21 大火事

文字数 915文字

2-21 家を建てる..で話したが、有り金を全部はたいた家がパーになるのをぎりぎり回避し、建てた新築の家から新しい職場に通うことになった。

Yチエインに入って4年目だったがここで次の試練となる一大事が起きるのである。

それは祖父が亡くなったすぐの翌年昭和28年2月 北風が強い日の深夜1時頃であった。

隣のおじさんの
「火事だぁ!」
の大声に眼を覚ました。

外を見ると大きな火の粉が北風に舞って飛んでいくのが見える。その頃家の前は大きな原っぱであった。ビックリした私は、祖母を起こすと、素早く身体にかい巻き布団を被せ、一緒に家の前の空地に飛び出した。

燃え方から火元は我が家のすぐ裏である事が分かった。

広い空地であるが熱を非常に感じる位、多くの火の粉が舞い込んで来た。
お隣さんには大人が4人いたので、逃げ出す際に荷物の持ち出しができていた。

それを見て火がまだ入っていない我が家に荷物を取りに入ろうかどうかを迷っていた。すんでのところで取りに入ることをやめたのだが、もし荷物にこだわって持ち出ししようと1人で戻っていたら、焼死していたかも知れない。
当時はベニヤ板と下見板で作ったバラックの家が多かったから、 火の回りが早いのだ。

こうして苦労して建てた我が家も、わずか半年で全焼してしまったのである。おかげで戦災も免れた家具や、祖父母の思い出多い品物も、すべて灰になってしまった。

これは近隣28世帯を巻き込んだ、新聞にも北砂の大火と大きく報道された程の大火事であった。

不幸中の幸いだったのは、家を建てた時に掛けていた保険が95パーセントおりた事で、この保険料で家を再建出来た事である。

今度は小松川の大工の叔父に再建を頼み、土壁の本建築の家を建ててもらったのだった。

命は助かり怪我はなかったものの、祖父を失った悲しみのすぐ後に、祖母の思い出の家具やモノすべて無くなり、また一からの出直しになってしまったのだった。

火事のすぐ後、俺は仙台堀川の土手まで走って行き、「なぜ俺たちばかりがぁ」と叫んだのだった。祖父が亡くなった時には泣かなかったのだが、この時は頬に涙が流れた。
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登場人物紹介

時は昭和の始め。

貧乏ではあるが東京の下町で活き活きと生きている少年がいた。

名前はのぼると言う。

のぼるが駆け抜けた昭和という時代とはどんなものだったのだろうか。 

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