第16話 自覚的意識のすすめ
文字数 2,385文字
ある日の営業会議――。
部長であるぼくは、部下たちを前にして、心得顔でとくとくと、こう説教を垂れていた。
「いいか、みんな。いつも言ってるように、仕事をする上で心がけなければならないのは、自覚的意識と意志的行為だ。ただ、ボウッと仕事をしてたんじゃ、けっして、ちゃんとした成果は得られん。それどころか、失態を犯して会社に迷惑をかけてしまう懸念がある。したがって、この二つ――自覚的意識と意志的行為をいつも念頭に置いて、仕事にいそしんでほしい。いいな、みんな。以上だ」
その日の夜――。
就寝前に、鏡をボウッと見ながら歯磨きしていると、営業会議で口にしていたことばがふいに、脳裏によみがえった。仕事をする上で心がけなければならないのは――という、あの二つのことばが。
浮かんだとたん、鏡の外にいるぼくは、鏡の中にいるぼくに自問した。
ところで、ここにいるぼくは、こんなふうに鏡の中にいるぼくを無自覚的意識でボウッと眺めながら、いままでずっと、無意志的に歯磨きしてこなかったか、というふうに。
いまさらながらに、そう自問すると、たしかに、おまえの言う通りだな、と鍵の中にいるぼくがあっさり自答した。
さすがに忸怩 たるものがあった。そりゃそうだ。部下には「仕事をする上で――」と、とくとくと説教を垂れていたのだから。それも、心得顔で……。
にもかかわらず、鏡の外にいるぼくはそれを忠実に実行することなく、鏡の中にいるぼくをボウッと眺めながら、毎日、歯磨きをしていたのだ。
それでは、自らの発言に齟齬 をきたすし、なにより、部下に対しても示しがつかない。
鏡の外にいるぼくは、そうじゃないのか、と鏡の中にいるぼくに問い正した。
そうだな――うなずいたぼくは、明日からは、ちゃんと歯磨きをするんだ! と鏡の中にいるぼくにあえて強く私語 いていた。
その次の朝から、ぼくは、自覚的意識で意識的に歯磨きをするようになった。
うん⁈
磨いていると、鏡の中にいるぼくの顔を、鏡の外にいるぼくの顔が思わず、二度見した。ことに、額の生え際の辺りを……。
ハッとした。遅まきながら、気がついたのだ。改めて、注意深く見ることで額の生え際が、ずいぶんと後退していることに……。
それと同時に、遠いふるさとで暮らす年老いた親父 の頭がふと、脳裏に浮かんでもいた。今では、すっかり禿頭 と化してしまった、さながらあの波平さんのような頭が、脳裏に、くっきり浮かんできたのだ。
切なかった。寂しかった。そしてなにより、DNAが悔しかった。そうした感情が鋭いトゲとなって、鏡の外にいるぼくの胸をグサリと刺した。その痛みに、思わずぼくはうろたえてしまう……。
ひょっとして――鏡の中にいるぼくは、鏡の外にいるぼくの頭を悲しげに見つめて、ぼくの頭髪の未来予想図を描く。
ひ、ひぇっ! ぞっとした。
鏡の中にいるぼくの頭が、だしぬけに、あの波平さんの頭に豹変したではないか!
だとしたら、ぼくがおぞけを震ったとしても無理はない。
それがあって以来、ぼくは、鏡の中にいるぼくの生え際ばかりが、むしょうに、気になって仕方なかった。すると、もういけない。
歯磨きをしていると、そこばかりに眼差しが向き、しかも、そこばかりに意識が集中するものだから、いつの間にか、歯磨きがおざなりになっていた。
そういう毎日を繰り返していた、ある日の夜。
あ、痛て!
卒然として、左の奥歯が疼き出した……。
歯が痛いと、なにをするのも憂鬱でしょうがない。
なんといっても、意識は歯の痛みに奪われるので、全然、仕事に身が入らない。これでは、管理職として失格だし、まして、部下に説教を垂れているどころの騒ぎじゃない。
そうかといって、ぼくは歯医者が苦手だ。歯医者ということばを耳にするだけで、まるで小さな子供のようにビビッてしまう。ぼくは、だから、しばらくの間市販の痛み止めを飲んで、それを糊塗 していた。
でもそれは、しょせん、対処療法にすぎない。したがって、いずれ、痛みに堪え切れなくなってしまうのは火を見るよりも明らか。
あんのじょう、ぼくはある日、とうとう、歯医者に向うのを余儀なくされていた。
「それじゃ、口を大きく開いて」
白髪交じりの老先生が、仏頂面で、つっけんどんに言う。なんだか、よけいビビッてしまう。だからといって、開けないわけにもいかない。渋々、あーんと、口を大きく開く。
口の中を覗きながら、老先生が、愛想なしに訊く。
「ちゃんと歯磨きしてる?」
これは、存外。「もひろん、ひてひますほほ、はいいち、ひゃんと」
もちろん、していますとも、毎日、ちゃんと――そう言ったつもりだけれど、いかんせん、口を大きく開いたままなので、聞く側からすれば、なんと言ってるのかてんでわからないと思われる。
あ、でも――けれどすぐに、ぼくは思い直す。
「ひゃんと……」
やっと、そこで老先生が「喋りにくいわな」と苦笑交じりに言って、ふつうに喋れるようにしてくれた。
「えーと、あ、そう、ちゃんとというのは……ちょいと語弊があるんです」
念頭に、最近の歯磨きの実態が、くっきりと浮かぶ。さすがにバツが悪かった。それでも、まあ、ぼくは「実を言うとですねぇ――」と現況を、ありのままに披露した。
「……ふむ、なるほどね」
相変わらず、仏頂面でうなずいた老先生は、生まれも育ちも下町らしく、伝法口調でまくしたてた。
「そいつが原因だな。そもそも虫歯にならねぇようにするには、自覚的意識で意志的に歯磨きしなくちゃいけねぇ。そうでないと、磨き残しが生じて、そこがこうして、今回のように虫歯になっちまうんだ。肝要なのは、それを忠実に実行することさ。わかったかい」
クスクス。
会社の会議室で、部下が忍び笑いをしたような、しないような……。
おしまい
部長であるぼくは、部下たちを前にして、心得顔でとくとくと、こう説教を垂れていた。
「いいか、みんな。いつも言ってるように、仕事をする上で心がけなければならないのは、自覚的意識と意志的行為だ。ただ、ボウッと仕事をしてたんじゃ、けっして、ちゃんとした成果は得られん。それどころか、失態を犯して会社に迷惑をかけてしまう懸念がある。したがって、この二つ――自覚的意識と意志的行為をいつも念頭に置いて、仕事にいそしんでほしい。いいな、みんな。以上だ」
その日の夜――。
就寝前に、鏡をボウッと見ながら歯磨きしていると、営業会議で口にしていたことばがふいに、脳裏によみがえった。仕事をする上で心がけなければならないのは――という、あの二つのことばが。
浮かんだとたん、鏡の外にいるぼくは、鏡の中にいるぼくに自問した。
ところで、ここにいるぼくは、こんなふうに鏡の中にいるぼくを無自覚的意識でボウッと眺めながら、いままでずっと、無意志的に歯磨きしてこなかったか、というふうに。
いまさらながらに、そう自問すると、たしかに、おまえの言う通りだな、と鍵の中にいるぼくがあっさり自答した。
さすがに
にもかかわらず、鏡の外にいるぼくはそれを忠実に実行することなく、鏡の中にいるぼくをボウッと眺めながら、毎日、歯磨きをしていたのだ。
それでは、自らの発言に
鏡の外にいるぼくは、そうじゃないのか、と鏡の中にいるぼくに問い正した。
そうだな――うなずいたぼくは、明日からは、ちゃんと歯磨きをするんだ! と鏡の中にいるぼくにあえて強く
その次の朝から、ぼくは、自覚的意識で意識的に歯磨きをするようになった。
うん⁈
磨いていると、鏡の中にいるぼくの顔を、鏡の外にいるぼくの顔が思わず、二度見した。ことに、額の生え際の辺りを……。
ハッとした。遅まきながら、気がついたのだ。改めて、注意深く見ることで額の生え際が、ずいぶんと後退していることに……。
それと同時に、遠いふるさとで暮らす年老いた
切なかった。寂しかった。そしてなにより、DNAが悔しかった。そうした感情が鋭いトゲとなって、鏡の外にいるぼくの胸をグサリと刺した。その痛みに、思わずぼくはうろたえてしまう……。
ひょっとして――鏡の中にいるぼくは、鏡の外にいるぼくの頭を悲しげに見つめて、ぼくの頭髪の未来予想図を描く。
ひ、ひぇっ! ぞっとした。
鏡の中にいるぼくの頭が、だしぬけに、あの波平さんの頭に豹変したではないか!
だとしたら、ぼくがおぞけを震ったとしても無理はない。
それがあって以来、ぼくは、鏡の中にいるぼくの生え際ばかりが、むしょうに、気になって仕方なかった。すると、もういけない。
歯磨きをしていると、そこばかりに眼差しが向き、しかも、そこばかりに意識が集中するものだから、いつの間にか、歯磨きがおざなりになっていた。
そういう毎日を繰り返していた、ある日の夜。
あ、痛て!
卒然として、左の奥歯が疼き出した……。
歯が痛いと、なにをするのも憂鬱でしょうがない。
なんといっても、意識は歯の痛みに奪われるので、全然、仕事に身が入らない。これでは、管理職として失格だし、まして、部下に説教を垂れているどころの騒ぎじゃない。
そうかといって、ぼくは歯医者が苦手だ。歯医者ということばを耳にするだけで、まるで小さな子供のようにビビッてしまう。ぼくは、だから、しばらくの間市販の痛み止めを飲んで、それを
でもそれは、しょせん、対処療法にすぎない。したがって、いずれ、痛みに堪え切れなくなってしまうのは火を見るよりも明らか。
あんのじょう、ぼくはある日、とうとう、歯医者に向うのを余儀なくされていた。
「それじゃ、口を大きく開いて」
白髪交じりの老先生が、仏頂面で、つっけんどんに言う。なんだか、よけいビビッてしまう。だからといって、開けないわけにもいかない。渋々、あーんと、口を大きく開く。
口の中を覗きながら、老先生が、愛想なしに訊く。
「ちゃんと歯磨きしてる?」
これは、存外。「もひろん、ひてひますほほ、はいいち、ひゃんと」
もちろん、していますとも、毎日、ちゃんと――そう言ったつもりだけれど、いかんせん、口を大きく開いたままなので、聞く側からすれば、なんと言ってるのかてんでわからないと思われる。
あ、でも――けれどすぐに、ぼくは思い直す。
「ひゃんと……」
やっと、そこで老先生が「喋りにくいわな」と苦笑交じりに言って、ふつうに喋れるようにしてくれた。
「えーと、あ、そう、ちゃんとというのは……ちょいと語弊があるんです」
念頭に、最近の歯磨きの実態が、くっきりと浮かぶ。さすがにバツが悪かった。それでも、まあ、ぼくは「実を言うとですねぇ――」と現況を、ありのままに披露した。
「……ふむ、なるほどね」
相変わらず、仏頂面でうなずいた老先生は、生まれも育ちも下町らしく、伝法口調でまくしたてた。
「そいつが原因だな。そもそも虫歯にならねぇようにするには、自覚的意識で意志的に歯磨きしなくちゃいけねぇ。そうでないと、磨き残しが生じて、そこがこうして、今回のように虫歯になっちまうんだ。肝要なのは、それを忠実に実行することさ。わかったかい」
クスクス。
会社の会議室で、部下が忍び笑いをしたような、しないような……。
おしまい