第31話 パンダの赤ちゃん
文字数 2,439文字
今日は、日曜日――。
およそ、世のお父さん方は、日頃の疲れを癒すために自宅でのんびり過ごされていることだろう。
けれど、ぼくは今日も、朝から仕事。さきごろ、ぼくはたっての希望の会社を立ち上げた。ただ、そうはいっても、非常に、小さな会社ではあるが……。
要は、経営者なので、みんなのようには休暇が取れないから、やむなく出社している。いや、むしろ、休暇など取っている暇はないから出社している、と言ったほうが正しいのだろう。
それでも、すっかり辺りが暗くなってくると、そして、休日ならではの都会の静寂に事務所が包まれてくると、さすがに仕事する気力が萎えてくる。
自宅には、今年五歳になった可愛い娘も待っている。
たまには相手してやんないと、嫌われちゃうからな。
それを言い訳に、ぼくはデスクの上の片付けもほどほどにもう、会社を後にしていた。
疲れた足と心を引きずりながらも、早く娘に会いたくて、家路を急いだ。
「ただいま」と声をかけて、リビングに顔を出すと、どうしたことかわか、その娘がグズっていた。
「どうしたの?」
顔を覗くようにして、娘に聞いた。すると、グズっている娘に代わって、妻が、「実はね」と口を切って、こう説明してくれた。
今日の午後、娘と一緒に、パンダを観に上野動物園に行ったんだと。娘は、パンダの赤ちゃんが生まれたときから、「観に連れてって」としつこくせがんでいた。
しかしながら、当初は、かなりの人出があって動物園は混沌としていた。
そこで、「見物するまで、ウンザリするほど待たされるぞ」とか「やっと見物出来たとしてもほんの数分だぞ」といった噂がもっぱら。
そうだとしたら、幼い子には酷すぎる――それを慮った妻は「もう少し落ち着いてからにしようね」と、娘を諭していたのだった。
だが、それも、ようやく、ひと段落ついたらしい。
「それで、やっと今日、念願がかなったんだろ。だったら――」
グズってるのっておかしいくねぇ、という顔をして、ぼくは妻を見た。すると妻が、「実はこれが問題なのよね」とテーブルの上に置いてある、二枚の写真を指差した。
え⁈ この写真が?
けげんそうに首をかしげながら、ぼくは、その二枚の写真に目を凝らす。
見ると、一枚は、パンダが生まれたころの写真。まだ、あどけない顔がアップで写されていて、なんともいえず愛くるしい。
それからもう一枚はきょう、撮影したというシロモノ。笹を食べている二匹の親子パンダらしきが、仲睦まじく、写真の中央に収まっている。
「で、この写真が?」
ぼくは腑に落ちないという表情で、妻に、小首をかしげて見せる。
すると、妻が、複雑な笑みを浮かべて、こう言うのだった。
「あら、わかんない? ちゃんと二枚を見くらべてよ。ほら、だって今日のは、すっかり大きくなっちゃって、生まれたころの面影がまるでないわ」
ほんとうだ、とぼくはうなづいてから、ことばをつづける。
「すっかり大きくなっちゃって、どっちがどっちだかわかんなくなっちゃってる。大人の俺でさえそうだとしたら、幼い子はなおさらだな……」
「でしょう。それでね、この子ったら、赤ちゃんパンダは、どこ?
赤ちゃんパンダは、どこ? って動物園からずっとこんな調子なの。もう少し早く連れて行ってあげれば、よかったんだろうけど……それは、今にして思えばってことで、後の祭りだもんね」
ため息交じりに、妻は言って、肩をすくめた。
あいかわらず、グズっている娘を目の端で覗きながら、ぼくは内心首を垂れる。
ごめん……仕事にかまけて、お前のことをゆるがせにしちゃったようだ。
もしも、また赤ちゃんパンダが生まれる機会に恵まれることがあったら、そのときは、たとえ会社を休んでも、それで、お客さんから顰蹙を買ったとしても、ぼくは、何を措いてもさしあたりおまえをパンダの赤ちゃんのもとに運んでやる――。
伏目がちに、そう誓って、ぼくは、首をあげる。そこで、改めて、二枚の写真に目をやった。
写真の中のパンダに、ぼくは内心苦笑を洩らしながら、言ってやる。
それにしても、おまえ、成長早すぎやしないか。たった二年で、こんなに大きくなっちゃってさ、と。
けれどすぐにぼくは思い直す。
でもそれは、あれだ。おまえが悪いわけじゃない。なので、おまえに文句をつける筋合いじゃないな、と。
とはいえ、やっぱり、合点がいかない。
だから、今度はこんなふうに、声にならないつぶやきを洩らす。
けどさ、せめて、なんとか顔だけでも幼いころに戻ってくんねえかなぁ……そしたら、娘の機嫌もなおるんだけどね。
そんな、目に余るような自分勝手なつぶやきを重ねつつ、ぼくは、人差し指で愛くるしい写真の方を、ピンと弾いた。
軽く弾いたつもりなのに、写真は存外、スピードをあげて、テーブルの上をするすると滑っていく。そして、その先にある一冊の雑誌にコツンとぶつかって、とまった。
それは、妻がいつも読んでいる、女性雑誌だ。表紙は、ある女優。彼女は最近、ヤホーニュースで、やたら整形疑惑が取りざたされていた……。
それを、真剣な眼差しで、ぼくはジッと見つめる。
すると一瞬、突拍子のない妄想が、ぼくの脳裏に浮かんだ。
いやいや、それは、いくらなんでも、不謹慎すぎるだろ――すぐに、ぼくは首を横に振って、その妄想を頭の中から追い出す。
そして、もう一枚の写真の方を手にとって、それをぼんやりと眺めながら、ぼくは、またもや、心の中でつぶやきを洩らす。
そんなことしなくても、十分、きみたちは可愛いもんな。なんたって、世界中のアイドルだもの。それに、いずれ、娘が大人になったとき、彼女自身が今日の皮肉を思い知らされる。だから、娘が機嫌が悪いのは許しておくれ。
おまえも、小さいときはほんとうに可愛かったのになぁ、とため息交じりに言われて、思い知らされるのさ。
ま、パパがそうだから、血は争えない、と思うよ。ごめんね……。
おしまい
およそ、世のお父さん方は、日頃の疲れを癒すために自宅でのんびり過ごされていることだろう。
けれど、ぼくは今日も、朝から仕事。さきごろ、ぼくはたっての希望の会社を立ち上げた。ただ、そうはいっても、非常に、小さな会社ではあるが……。
要は、経営者なので、みんなのようには休暇が取れないから、やむなく出社している。いや、むしろ、休暇など取っている暇はないから出社している、と言ったほうが正しいのだろう。
それでも、すっかり辺りが暗くなってくると、そして、休日ならではの都会の静寂に事務所が包まれてくると、さすがに仕事する気力が萎えてくる。
自宅には、今年五歳になった可愛い娘も待っている。
たまには相手してやんないと、嫌われちゃうからな。
それを言い訳に、ぼくはデスクの上の片付けもほどほどにもう、会社を後にしていた。
疲れた足と心を引きずりながらも、早く娘に会いたくて、家路を急いだ。
「ただいま」と声をかけて、リビングに顔を出すと、どうしたことかわか、その娘がグズっていた。
「どうしたの?」
顔を覗くようにして、娘に聞いた。すると、グズっている娘に代わって、妻が、「実はね」と口を切って、こう説明してくれた。
今日の午後、娘と一緒に、パンダを観に上野動物園に行ったんだと。娘は、パンダの赤ちゃんが生まれたときから、「観に連れてって」としつこくせがんでいた。
しかしながら、当初は、かなりの人出があって動物園は混沌としていた。
そこで、「見物するまで、ウンザリするほど待たされるぞ」とか「やっと見物出来たとしてもほんの数分だぞ」といった噂がもっぱら。
そうだとしたら、幼い子には酷すぎる――それを慮った妻は「もう少し落ち着いてからにしようね」と、娘を諭していたのだった。
だが、それも、ようやく、ひと段落ついたらしい。
「それで、やっと今日、念願がかなったんだろ。だったら――」
グズってるのっておかしいくねぇ、という顔をして、ぼくは妻を見た。すると妻が、「実はこれが問題なのよね」とテーブルの上に置いてある、二枚の写真を指差した。
え⁈ この写真が?
けげんそうに首をかしげながら、ぼくは、その二枚の写真に目を凝らす。
見ると、一枚は、パンダが生まれたころの写真。まだ、あどけない顔がアップで写されていて、なんともいえず愛くるしい。
それからもう一枚はきょう、撮影したというシロモノ。笹を食べている二匹の親子パンダらしきが、仲睦まじく、写真の中央に収まっている。
「で、この写真が?」
ぼくは腑に落ちないという表情で、妻に、小首をかしげて見せる。
すると、妻が、複雑な笑みを浮かべて、こう言うのだった。
「あら、わかんない? ちゃんと二枚を見くらべてよ。ほら、だって今日のは、すっかり大きくなっちゃって、生まれたころの面影がまるでないわ」
ほんとうだ、とぼくはうなづいてから、ことばをつづける。
「すっかり大きくなっちゃって、どっちがどっちだかわかんなくなっちゃってる。大人の俺でさえそうだとしたら、幼い子はなおさらだな……」
「でしょう。それでね、この子ったら、赤ちゃんパンダは、どこ?
赤ちゃんパンダは、どこ? って動物園からずっとこんな調子なの。もう少し早く連れて行ってあげれば、よかったんだろうけど……それは、今にして思えばってことで、後の祭りだもんね」
ため息交じりに、妻は言って、肩をすくめた。
あいかわらず、グズっている娘を目の端で覗きながら、ぼくは内心首を垂れる。
ごめん……仕事にかまけて、お前のことをゆるがせにしちゃったようだ。
もしも、また赤ちゃんパンダが生まれる機会に恵まれることがあったら、そのときは、たとえ会社を休んでも、それで、お客さんから顰蹙を買ったとしても、ぼくは、何を措いてもさしあたりおまえをパンダの赤ちゃんのもとに運んでやる――。
伏目がちに、そう誓って、ぼくは、首をあげる。そこで、改めて、二枚の写真に目をやった。
写真の中のパンダに、ぼくは内心苦笑を洩らしながら、言ってやる。
それにしても、おまえ、成長早すぎやしないか。たった二年で、こんなに大きくなっちゃってさ、と。
けれどすぐにぼくは思い直す。
でもそれは、あれだ。おまえが悪いわけじゃない。なので、おまえに文句をつける筋合いじゃないな、と。
とはいえ、やっぱり、合点がいかない。
だから、今度はこんなふうに、声にならないつぶやきを洩らす。
けどさ、せめて、なんとか顔だけでも幼いころに戻ってくんねえかなぁ……そしたら、娘の機嫌もなおるんだけどね。
そんな、目に余るような自分勝手なつぶやきを重ねつつ、ぼくは、人差し指で愛くるしい写真の方を、ピンと弾いた。
軽く弾いたつもりなのに、写真は存外、スピードをあげて、テーブルの上をするすると滑っていく。そして、その先にある一冊の雑誌にコツンとぶつかって、とまった。
それは、妻がいつも読んでいる、女性雑誌だ。表紙は、ある女優。彼女は最近、ヤホーニュースで、やたら整形疑惑が取りざたされていた……。
それを、真剣な眼差しで、ぼくはジッと見つめる。
すると一瞬、突拍子のない妄想が、ぼくの脳裏に浮かんだ。
いやいや、それは、いくらなんでも、不謹慎すぎるだろ――すぐに、ぼくは首を横に振って、その妄想を頭の中から追い出す。
そして、もう一枚の写真の方を手にとって、それをぼんやりと眺めながら、ぼくは、またもや、心の中でつぶやきを洩らす。
そんなことしなくても、十分、きみたちは可愛いもんな。なんたって、世界中のアイドルだもの。それに、いずれ、娘が大人になったとき、彼女自身が今日の皮肉を思い知らされる。だから、娘が機嫌が悪いのは許しておくれ。
おまえも、小さいときはほんとうに可愛かったのになぁ、とため息交じりに言われて、思い知らされるのさ。
ま、パパがそうだから、血は争えない、と思うよ。ごめんね……。
おしまい