第21話 吾輩は三毛だニャン
文字数 2,698文字
陽は、すでに西の空にかたむきかけている。
きょうは、やけに残照が美しい。空を赤く染めた残照が、富士の山まで茜色に染めている。
だからといって、市井の人々が、この光景に心を奪われている暇 はない。
なぜなら、都会の夕暮れ時は想像以上にせわしないからだ。
たとえば、主婦は夕食の材料を買い求めるためにスーパーに走る。学生は塾へと、そして学童は稽古事へと、それぞれがせわしなく走る。
それが、都会の夕暮れ時に喧騒を生むと同時に、このひと時をよりせわしなく感じさせてもいるようだ。
その喧騒に混じって、なにやら耳をつんざくような音が辺りに轟いている。
たぶんこれは、あれだろう。ゴルフボールの打球音だろう。ということは、この近くにゴルフの練習場があるらしい。そうだとしたら、この打球音はいまの時間帯だけでなく、一日中、この界隈に響き渡っていることになる。
ちなみに、この練習場がある辺りにはその昔、のどかな田園風景が広がっていたという。
それを思えば隔世の感がある。なにしろいまでは、この練習場をとり囲むようにして、URとか都営の団地とか分譲マンションとかが辺り一帯を蚕食して、窮屈そうに林立しているのだから。
「けれど、それにしたって、なんで、こんな団地の真ん中にゴルフ練習場があるんだよ!!」
そうフンガイする人がいる。これは最近、この団地に引っ越してきた新参者の、そのボヤキである。
だが、これはいただけない。わたしたち人間は世界のすべてを認識することはできない。だとしたら、『何か』にフンガイするときはまず、その『何か』に柔軟に距離を置いて眺めることが寛容である。その上で、フンガイしていいかどうかを判断する。そうするようにこころがけたい、そんなわたしたち人間である。
ところで、この練習場のほど近くに、災害時の避難場所に指定されている、けっこう広々とした公園がある。
そこは、団地に住んでいる子どもたちの、格好の遊び場だ。屈託のない彼らの無邪気なはしゃぎ声。それが、夕暮れ時の喧騒に紛れて、牧歌的に轟いている。そこに、練習場の打球音が足し算される。
この二つの音が、さながらポリフォニーの旋律のようになって夕暮れ時の喧騒に、絶妙なアクセントを与えている。
「にしても、平和なもんだニャ」
どこかから、そんなつぶやきが聞こえてくる。
どこからだろう。辺りを窺うと、この練習場を囲むようにして、一メートルくらいの低いブロック塀が設えてある。よく見ると、その上に一匹の『三毛』が寝そべっているのが目に入る。
どうやら、声の主は、この三毛のようだ。
ちなみに、三毛はここでこうして、昼下がりからいままでずっと寝そべっていた。となれば、平和といえば、この三毛が一番平和ではあるまいか。
それを、三毛は自虐的につぶやいている?
いや、どうも、そうではないらしい。
練習場を見れば、平日にもかかわらず、のべつ人間がここを訪れている。三毛は、ここに寝そべりながら、その様子をつぶさに見守ってきた。どこか冷めた目をして……。
そうだとすれば、三毛のこのつぶやきの背後には、どうも、皮肉めいた非難が隠れているらしく思われる。
ただ、三毛は日がな一日打ちっぱなしに興じる人間を、むやみに皮肉っているのではない。そもそも、この国はいま、非常に危険な状態にさらされているさなかなのだ。
というのも、この国の版図に向けて、隣国がミサイルを打ち込むのではなかろうかという、懸念があるのだ。
そういうときにもかかわらず、彼らは、そんなの関係ないと言わんばかりに、朝も早くから、こうして能天気に打ちっぱなしに興じている。
そういう人間どもに対して、三毛は「平和なもんだニャ」と皮肉めいた非難をぶつけているのだった。
そればかりではない。彼らについて、三毛は、このような辛辣な感想すら抱いている。
彼らは、いまこのときが楽しければそれでいいという、刹那主義者である。のみならず、彼らは、自分さえ良ければいいという、そんなエゴイストでもある、というふうに。
そうした風潮がだニャン――力なくかぶりを振って、三毛はボヤク。
あまねくこの国に蔓延し、国民のほとんどことごとくを堕落させてしまったようだニャン、と思って。
おやおや――そんなふうに、人間の堕落を嘆いている当の本人が、そう言ったそばから、大きな欠伸をしているではないですか。いくらなんでも、それはねぇ……。
ニャハハ――気まずそうに、三毛は苦笑する。
たしかに、人間どもを皮肉っている場合じゃないニャン。どうも、これは、あれだニャン。人間の平和ボケ菌に、オイラも犯されてしまったみたいだニャン、と三毛は頭をかいて。
その気恥ずかしさをうっちゃるかのように、ふと三毛は彼らから目をはなして、その目を西の空に向けた。
晩秋の陽は、いつのまにか、西の彼方へと沈んでいる。あれほど美しかった残照は、もはや紫紺の色に変わり、それが、公園のシーソーを影絵のようにくすんで見えさせてもいる。
あいかわらず、辺りには、ゴルフの打球音が響き渡っている。あくまでも、平和な夕暮れ時だ。
ただ、子どもたちのはしゃぐ声はもう、聞こえない。まもなく、ゆうげの刻限を迎える。彼らは、だから、わが家へと三々五々帰って行ったらしい。
三毛はその目を、西の空から、練習場へと転じ、ひとりごとのようにつぶやく。
「ずっと平和ボケでいられるなら、それでいいんだニャン。世界が永劫 に平和でありつづけて、みんながずっと平和ボケでいられるなら、それに越したことはないんだニャン」
それとニャ――こう三毛は、切に願う。
子どもたちの、あの無邪気なはしゃぎ声を悲痛な叫び声には絶対に変えないでほしいんだニャン。いつまでも子どもたちが平穏無事でいられる。大人たちには、そういう平和な世界を構築してほしいもんだニャン、というふうに。
あ、あと、そこのキミたち――練習場でボールを打つのに余念がない人間に向かって、三毛がボヤク。
せめて、緊急事態のときぐらいは、もうちょっと緊張感というものを持とうだニャン。でないと、われわれにも類が及んでしまう懸念があるだニャン。いずれ、死ぬにせよ、オイラだけは少しでも楽に死にたいので、そこんとこよろしくニャン。
あれれ、オイラだけ……って、なんだか聞き捨てならないですね、三毛さん。そんなこと言ってたら、三毛さんもエゴイストのそしりを受けかねないですけど、大丈夫ですか?
ニャハハ――にしても、人間のエゴイスト菌ってヤツは、すこぶる強力みたいだニャン。
ニャン、ニャン……。
きょうは、やけに残照が美しい。空を赤く染めた残照が、富士の山まで茜色に染めている。
だからといって、市井の人々が、この光景に心を奪われている
なぜなら、都会の夕暮れ時は想像以上にせわしないからだ。
たとえば、主婦は夕食の材料を買い求めるためにスーパーに走る。学生は塾へと、そして学童は稽古事へと、それぞれがせわしなく走る。
それが、都会の夕暮れ時に喧騒を生むと同時に、このひと時をよりせわしなく感じさせてもいるようだ。
その喧騒に混じって、なにやら耳をつんざくような音が辺りに轟いている。
たぶんこれは、あれだろう。ゴルフボールの打球音だろう。ということは、この近くにゴルフの練習場があるらしい。そうだとしたら、この打球音はいまの時間帯だけでなく、一日中、この界隈に響き渡っていることになる。
ちなみに、この練習場がある辺りにはその昔、のどかな田園風景が広がっていたという。
それを思えば隔世の感がある。なにしろいまでは、この練習場をとり囲むようにして、URとか都営の団地とか分譲マンションとかが辺り一帯を蚕食して、窮屈そうに林立しているのだから。
「けれど、それにしたって、なんで、こんな団地の真ん中にゴルフ練習場があるんだよ!!」
そうフンガイする人がいる。これは最近、この団地に引っ越してきた新参者の、そのボヤキである。
だが、これはいただけない。わたしたち人間は世界のすべてを認識することはできない。だとしたら、『何か』にフンガイするときはまず、その『何か』に柔軟に距離を置いて眺めることが寛容である。その上で、フンガイしていいかどうかを判断する。そうするようにこころがけたい、そんなわたしたち人間である。
ところで、この練習場のほど近くに、災害時の避難場所に指定されている、けっこう広々とした公園がある。
そこは、団地に住んでいる子どもたちの、格好の遊び場だ。屈託のない彼らの無邪気なはしゃぎ声。それが、夕暮れ時の喧騒に紛れて、牧歌的に轟いている。そこに、練習場の打球音が足し算される。
この二つの音が、さながらポリフォニーの旋律のようになって夕暮れ時の喧騒に、絶妙なアクセントを与えている。
「にしても、平和なもんだニャ」
どこかから、そんなつぶやきが聞こえてくる。
どこからだろう。辺りを窺うと、この練習場を囲むようにして、一メートルくらいの低いブロック塀が設えてある。よく見ると、その上に一匹の『三毛』が寝そべっているのが目に入る。
どうやら、声の主は、この三毛のようだ。
ちなみに、三毛はここでこうして、昼下がりからいままでずっと寝そべっていた。となれば、平和といえば、この三毛が一番平和ではあるまいか。
それを、三毛は自虐的につぶやいている?
いや、どうも、そうではないらしい。
練習場を見れば、平日にもかかわらず、のべつ人間がここを訪れている。三毛は、ここに寝そべりながら、その様子をつぶさに見守ってきた。どこか冷めた目をして……。
そうだとすれば、三毛のこのつぶやきの背後には、どうも、皮肉めいた非難が隠れているらしく思われる。
ただ、三毛は日がな一日打ちっぱなしに興じる人間を、むやみに皮肉っているのではない。そもそも、この国はいま、非常に危険な状態にさらされているさなかなのだ。
というのも、この国の版図に向けて、隣国がミサイルを打ち込むのではなかろうかという、懸念があるのだ。
そういうときにもかかわらず、彼らは、そんなの関係ないと言わんばかりに、朝も早くから、こうして能天気に打ちっぱなしに興じている。
そういう人間どもに対して、三毛は「平和なもんだニャ」と皮肉めいた非難をぶつけているのだった。
そればかりではない。彼らについて、三毛は、このような辛辣な感想すら抱いている。
彼らは、いまこのときが楽しければそれでいいという、刹那主義者である。のみならず、彼らは、自分さえ良ければいいという、そんなエゴイストでもある、というふうに。
そうした風潮がだニャン――力なくかぶりを振って、三毛はボヤク。
あまねくこの国に蔓延し、国民のほとんどことごとくを堕落させてしまったようだニャン、と思って。
おやおや――そんなふうに、人間の堕落を嘆いている当の本人が、そう言ったそばから、大きな欠伸をしているではないですか。いくらなんでも、それはねぇ……。
ニャハハ――気まずそうに、三毛は苦笑する。
たしかに、人間どもを皮肉っている場合じゃないニャン。どうも、これは、あれだニャン。人間の平和ボケ菌に、オイラも犯されてしまったみたいだニャン、と三毛は頭をかいて。
その気恥ずかしさをうっちゃるかのように、ふと三毛は彼らから目をはなして、その目を西の空に向けた。
晩秋の陽は、いつのまにか、西の彼方へと沈んでいる。あれほど美しかった残照は、もはや紫紺の色に変わり、それが、公園のシーソーを影絵のようにくすんで見えさせてもいる。
あいかわらず、辺りには、ゴルフの打球音が響き渡っている。あくまでも、平和な夕暮れ時だ。
ただ、子どもたちのはしゃぐ声はもう、聞こえない。まもなく、ゆうげの刻限を迎える。彼らは、だから、わが家へと三々五々帰って行ったらしい。
三毛はその目を、西の空から、練習場へと転じ、ひとりごとのようにつぶやく。
「ずっと平和ボケでいられるなら、それでいいんだニャン。世界が
それとニャ――こう三毛は、切に願う。
子どもたちの、あの無邪気なはしゃぎ声を悲痛な叫び声には絶対に変えないでほしいんだニャン。いつまでも子どもたちが平穏無事でいられる。大人たちには、そういう平和な世界を構築してほしいもんだニャン、というふうに。
あ、あと、そこのキミたち――練習場でボールを打つのに余念がない人間に向かって、三毛がボヤク。
せめて、緊急事態のときぐらいは、もうちょっと緊張感というものを持とうだニャン。でないと、われわれにも類が及んでしまう懸念があるだニャン。いずれ、死ぬにせよ、オイラだけは少しでも楽に死にたいので、そこんとこよろしくニャン。
あれれ、オイラだけ……って、なんだか聞き捨てならないですね、三毛さん。そんなこと言ってたら、三毛さんもエゴイストのそしりを受けかねないですけど、大丈夫ですか?
ニャハハ――にしても、人間のエゴイスト菌ってヤツは、すこぶる強力みたいだニャン。
ニャン、ニャン……。