第41話 カタストロフィ 第四話

文字数 2,288文字

 しかしながら、団地の再開発案は頓挫してしまう。
「あれほど走り回ったというのに……」
 地域の住民らで作る市民団体の代表は、自らが額に汗して奔走したぶん、落胆の色を隠せなかった。彼は篤志家で、社会奉仕に熱心な男だった。
「ほかに、何かいい案はないものか」
 そんなふうに、彼が途方に暮れていると、それを見かねたある市会議員が「こういうのは、どうですかな」と言って、代替え案を提示してきた。
「この際、再開発案はいったん棚上げにするというのは」
「棚上げ?」
 代表が反芻するように言う。
「さよう。なんといっても、問題は空き部屋です。これが増えたことで団地の雰囲気が乱れ、この辺りの治安が悪くなった。だとすれば、空き家さえなくなれば、いちおう問題は解決するんです」
「まあ、わたしどもも地域の治安さえよくなれば、あえて活動しなくても……」
「そうでしょう」
 市会議員が満足げにうなづく。
「そこで、提案したいんです。いま空いてる部屋の家賃を下げて、新たな入居者を募るというのは、どうかと。空き家問題が解消すれば、ふたたび団地に活気が戻るし、そうすれば地域の治安も良くなるんです。どうですかな、この案は?」
 これを聞いた市民団体の人たちこぞって、浮かない眉をひそめた。
 さもありなん。それだと、すでに入居している人たちは間尺に合わないからだ。もちろん、家賃の面で。
 それを指摘された市会議員だったが、少しも慌てることなく、むしろ図々しいくらい沈着冷静に、ことばを継いだ。
「もちろん、それは承知の上で、わたしは申し上げておるんです」
 代表がけげんそうな顔をして首をかしげる。言ってる意味がわからないということだろう――。
「まあ、そんなけげんそうな顔をしなさんな。わたしだって、不満が出ることぐらい百も承知していますよ。ですから、それ相応の見返りを用意した上で、申しておるんです」
 そう言って、市会議員は、口の端をゆるめた。けれど、どういう見返りだかを口にすることなく、市会議員は話を先に進めた。
「そのためにも、再開発は必ず行わなければなりません。デベロッパーについては、わたくしどもの方で鋭意交渉中なんです。それゆえ、いずれどこかが手をあげるはずです。要は、家賃を安くするといっても、デベロッパーとの交渉がまとまり、再開発が完了するまでの期間――ま、いわば一時しのぎってところですかな」
 そう言って、市会議員がは、だから、何の問題もない、というふうに、鷹揚に、笑って見せた。
 しかし、これを聞いた代表は「やれやれ……」と力なく首を振って、ため息交じりに言った。
「それが、どのくらいの期間になるのか知りませんが、その間、いまの入居者が損をすることになんら変わりはありません。そんな不公平な提案を、彼らがすんなり受け入れるとは到底思えませんけどね」
 
 
「奥さんお聞きになりました。前の団地の住民、あの提案を受け入れたっていうじゃないですか」
「そうみたいね……それにしても、解せませんわ。同じ間取りの部屋で、家賃に差があるなんてね。わたしだったら、到底受け入れられない提案ですわ。そちらの奥さんも、そう思われません」
 高級マンションのエントランスホールの一角。きょうも、ママさんたちが三々五々集まってきて、ああでもないこうでもないと、とりとめもない議論に余念がない。
 ママさんたちは、市会議員の提案がすんなり通ったのが得心いかないと言って、喧々諤々、意見を闘わせているのである。
「それもそうなんですが、この案件でもっと懸念されるのは新たな入居者の品位ですわ。やんちゃなガキども、もとい、お子さんたちが大挙転校してくるかと思うと、わたし眩暈がしますもの」
「わたくしもですわ。これまでなかったイジメや校内暴力なんかが日常茶飯事になろうものなら、宅の息子なぞは不登校になってそのまま引きこもり、ってことになりかねませんもの」
「それだけは絶対に避けたいですわね。ここの中学校は公立なのに校内暴力はないし進学率も高いということで、これまで安心して子どもを通わせていたんですから」
 そうよ、それなのになによ!
 ああ、どうしてこうなるの。
 これじゃ、がっかりだわ……。
 ママさんたちは、前の団地の住民の不実に激怒したり、己の不運を呪ったり、世の不条理に絶望したりと、とにかく、心の中がいろんな感情で忙しい。
「自治会長さんに、あれほど口酸っぱく言ったのよ……」
 憤然として、口を開いたのは教育ママ然とした、あの山田さんだ。
「このマンションの住民としては断固受け入れ難いという旨を、市会議員や市民団体の代表さんに強く訴えてほしいって、あれほど口酸っぱく……」
 だというのに、こんな羽目に合うなんてね、と山田さんは実に無念そうに唇を嚙み締める。
 このたびの団地の件に関して、山田さんは当初から、さっぱり合点がいかないと、ひとり、フンガイしていた。
 子どもを通わせている学校の風紀が乱れたら、来たるべき大学受験に支障をきたしてしまう、と懸念しているからだ。
 そもそも、ここのマンションの自治会長も当初、これには断固反対という態度で臨んでいた。ところが、なぜか、途中から、あいまいな態度を取るようになったのだった。そういうことがあったので、山田さんは自治会長のことを、あまり快く思っていなかった。
 かくして、マンションの住民の猛反対も虚しく、前の団地にはやんちゃな子どもたちが大挙として押し寄せてきた。
 山田さんが、役員会で「どうせ、前の団地の悪ガキどもの……」とうっかり口を滑らせたのも、実はその大きな余波にほかならない。


つづく
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