第29話 ペルソナの下のわたし 最終章

文字数 1,711文字

 それから一ヵ月が経った、ある日のこと――。
  久しぶりに、妙に馬が合うアキコから突然、電話があった。
 「ねえ、ユキ、知ってる」
 だしぬけに、尋ねられた。
 「な、なにを?」
 「トモミよ、トモミの件よ」
 トモミ? 
 「し、知らないわ。彼女がどうしたっていうの」
 実際、知らなかった。
 「それがさあ、彼女たち寄りを戻したっていうのよ」
  え!
  寝耳に水だった。
「ほんとうに」
 わたしは思わず、訊いてしまう。
  訊いたとたん、わたしは「あ」と顔をしかめた。ほとんど反射的に、わたしは内心まずいと思って、顔をしかめたのだ。
 だって、ここは「よかったじゃない」と、ほんとうは諸手を挙げて喜ぶ場面だったのだから……。
 親友なら、そして何より、トモミの事を心底心配しているというなら、無意識のうちに、そういうことばが唇からこぼれ落ちているはず。
  にもかかわらず、言うに事を欠いて、わたしは「ほんとうに」と、あたかも疑ってますよ、というような口振りで、聞き返していた……。
 そうだとしたら、わたしは自分に嘘をついたことになる。
 少なくともわたしは、みんなとちがって、トモミのことを心底心配している、と嘯いていたのだから。

 あれ、ユキは、てっきりトモミのことを心底心配してたと思ってた。でも実は、そうじゃなかったのね。
 そんなふうに、アキコから指摘される。そう思ってわたしは、身構えた。だがーー。
 「ほんとうみたいだよ。驚いちゃうよね」
 そう言って、アキコはスマホの向こうで、深いため息をつくではないか。
 驚いちゃうよねーー反芻したら、拍子抜けしたと同時に、確信してしまった。やっぱり、アキコには何かある、ということを。
  今度はわたしのほうが、ざっくばらんに、尋ねてみた。
 「ねえ、アキコ……何かあった?」
  尋ねたとたん、アキコの呼吸がスマホの向こうであきらかに乱れた、のがよくわかった。心中穏やかでいられないのが、ありありと感じとられたのだ。
 わたしも、息をつめて、口をつぐむ。
 一瞬、気まずい沈黙。
  たっぷり間をおいたあとで、その沈黙を破るように、アキコが一つ息をついて、それから、口を開いた。
 「実はね……わたしいま、旦那と別居中なのよ」
  え! 思わず、わたしは息を呑む。なんだか胸が痛くなってきた。
 部屋の窓ガラスに、わたしの顔がぼんやりと映り込んでいる。ひどく冴えない表情で――。
 ほどなく、ハッとわれに返ったわたしは、改めて、思う。
 やっぱり、何かあったんだ、と。
 でもだからといって、まさか、こんなに実に切実な事情だとは思いもしなかった……。
 やっぱり、夫婦仲って一筋縄ではいかないようね――そうわたしは思うと、すっかりうろたえてしまった。
 いや、そうやって、うろたえている場合じゃないわ。それより、ここは、アキコに何か気の利いたことばの一つでもかけてあげなきゃいけないわ、とわたしは自分に言い聞かせる。
 でもわたしは、躊躇する。
 不用意な言葉は、かえって彼女を傷つけてしまうし、お互い気まずい雰囲気の中に沈んでしまう懸念があるからだ。
 これって、あれじゃない。
 そう、まさに、ヤマアラシのジレンマじゃない――。
 そうわたしは思うと、ますます、うろたえてしまった。
 自分では、トモミのことを心底心配していると信じていた。だが、なんのことはない、ペルソナの下には、みんなと同様に人の不幸を喜んでこいる、そんなわたしがいた……。
 そう思ったら、わたしは自分が何をどうすればいいのか、さっぱりわからなくなっていた。
 
 
  その晩――。
  ドレッサーに腰を据えて、わたしは鏡と対峙する。
 ――鏡の中にいるわたしの顔は、鏡の外のいるペルソナの下のわたしの顔を見て、ため息交じりに、こう私語(ささや)きかける。
  あなたとっても、意地悪そうな顔をしてるわ。
 他人の幸福を妬み、そして不幸を願う、そういうあさましい顔をね……。

 
 それから、数ヶ月後ーー。
 アキコが旦那とわかれた、という噂が洩れ聞こえてきた。
 さらにその数ヶ月後。
 リビングテーブルの上に置いてある一枚の用紙に、わたしはいま、震える手で捺印を終えたところだ……。
 
 
〈了〉
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