第8話 少女の貯金箱  後編

文字数 2,722文字


 え⁈ な、なに!
 気が弱いぼくはギョッとして、足を止めていた。声がする方に、ぼくは、おずおずと(こうべ)をめぐらせる。
 見ると、三十路格好の女性と、その横に、幼稚園児くらいの少女が佇んでいるのが目に入った。たぶん二人は、親子なのだろう。
 煙草の煙が蔓延して、ひどく空気がよどんだ空間。そういう空間にありながら、この二人は、それに(けが)されるでもなく、悠然と佇んでいる。この親子はそれほど、非常に、清々しく、そこに佇んでいたのだった。
 それと比べたら――浮かない眉をひそめて、ぼくは鼻白む。
 すっかり世間の垢にまみれて、野暮ったい笑みしか浮かべられないもんなぁ、と。
 そんなおじちゃんに、なんの用? そういう目をして、ぼくは訊く。 
 ぼくを見上げながら、少女は、えもいわれぬ笑みをたたえている。汚れを知らない、無垢な笑み。見ていたら、なんだか気恥ずかしくなって、思わずぼくは目を逸らしてしまった。
 はからずも、そっぽを向いたぼくの耳に、少女の唇からこぼれ落ちたことばがふいに、触れた。
「おじちゃん。おじちゃんに、わたしの貯金箱をさしあげますわ」


 え! 今、なんて⁈
 たしか、貯金箱が、どうのこうの……反芻して、ぼくは内心苦笑した。
 ひょっとして、これまでの行動を見られていたというのか。それを見かねて、同情した――そう思って、ぼくは苦笑したのだ。
 いやいや、だとしても、と首を横に振ると、その苦い笑みは、より苦くなる。
 赤の他人に、それも、いたいけな少女に、そうしたほどこしを受けたのでは、さすがにばつが悪いからだ。
 ぼくは、だから、無理やり、苦い笑みを甘い笑みに変えて「お嬢ちゃん、お気遣いだけありがたく受け取っておくよ」と、やんわり断りを入れた。
 それから、母親はどういう了見なんだろう、と目の端でちらり覗いた。
 その昔、レオナルド・ダビンチが描いたマリヤさまのような慈愛に満ちた笑みをたたえて、彼女は少女の長い黒髪を優しく撫でていた。
 下町では、めったにお目にかかれない、優雅で、気品に満ちた佇まい。また、その隣にいる少女は、さながら西洋の絵本から抜け出してきたお姫様のような、そんな装い。
 けれど、それにしたって、どうしてまた、下町には不釣り合いなこの二人が、ぼくの前に現れ声をかけているんだろう、というふうに、ぼくは不思議で仕方がなかった。
 
 
「おじちゃん」
 ふいに、ぼくの夢想を破るようにして、少女が口を開いた。
 はっとわれに返って、思わずぼくは息を吞んだ。断りを入れたのに、ぼくの眼前に、少女の可愛い手のひらが差し出されていたからだ。
 その上をよく見ると、そこには貯金箱――ならぬ、マッチ箱。なんともいえず哀愁を誘う、ミュシャがデザインした図柄のようなマッチ箱。
 それを目にしたぼくは、しばらく呆然として口も利けずにいた。なにがなんだか、腑に落ちなかったのだ。
 そんなぼくをよそに、少女の唇から、またしても、仔細げなことばがこぼれ落ちる。
「ほのおのかけらがいっぱいつまった貯金箱。これを、おじちゃんにさしあげますわ」
 え、ほ、ほのお……の、かけら……?
 ますます、腑に落ちない。
 たぶんぼくは、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして、その場に立ち尽くしているのだろう。
 だいたい、ぼくは決定的に機知に富んでいない。だから、こうして、にわかに仔細ありげなことばを耳にすると、転瞬、頭が真っ白になってしまうのだ。
 とはいえ、この場をなんとかとりつくろわなくちゃ――そういう強迫観念に駆られたぼくは、いったん、少女から目を離して、肩でひとつ息をついた。
 その上で、ほのおのかけら、ほのおのかけら、と頭の中で、改めて反芻してみる。ほどなく、ようやっとぼくは「あ」と膝を打った。
 なんだ、やっぱり見られていたのか――やっと、腑に落ちたぼくは、少女とお母さんと交互に、同等の笑みを浮かべて見せた。
 
 
 それにしても、素敵な言葉を紡ぐ少女じゃないか。感心しながら、ぼくは改めて、少女の可憐な面持ちを窺う。
 このおじさんとかうちの子とかには、到底、紡ぐことのできない素敵なことばじゃないか。きっと、親の躾がいいんだろうな、そう思ったとたん、またしても、ぼくは内心苦笑。
 なんのことはない、うちの子は、このおじさんの躾がなってないだけだもの……。
 ぼくと雲泥の差がある母親に、ふと目をやった。
 相変わらず、彼女は例の笑みをたたえて、少女の長い黒髪を優しく撫でていた。
 厳然たる微笑み――ふと、そんなことばが頭をよぎる。それは、ついぞうちの奥さんが見せたことのない微笑みだった。
 たぶんこれは、心根の優しさが、そのまま気色となって表白されているのだろう。
 あら、あたしだって――ふいに、うちの奥さんの顔が脳裏に現れる。
 あなたが、もっと優しくしてくれたら、そのくらいの微笑みは浮かべてあげてよ、そうつぶやいて、唇を尖らせている顔が……。
 苦笑交じりに、ぼくは、その顔をあさっての方向に蹴飛ばし、では、おことばに甘えさせていただこう、と心の中でつぶやいて、貯金箱ならぬ、マッチ箱に手をのばそうとした。だが――。


 ぼくは躊躇する。
 はたして、このおじさんの汚れた手で、おいそれと、これを触っていいものか――そう、迷って。それほど、このマッチ箱は、神聖に、まばゆく、ぼくの目に映っていた。
 するとそのとき、ぼくの(からだ)が、突然、ぶるっと震えた。
 夕闇が迫り、舗道を渡る風の冷たさが、いっそう冴えてきたようなのだ。これでは少女も、さぞや寒かろう。いたたまれなくなったぼくは、「それでは、お嬢ちゃん、遠慮なく、使わせていただきますよ」と改めて断りを入れて、それに手をのばした。
 手にしたぼくは、さっそく、マッチを一本取り出す。なんだか、マッチ棒までもが神聖に見えてくる。
 いざ、擦ろう、すんでのところで、またもや、ぼくは躊躇する。
 おいおい、少女が寒いんじゃないのか。そうやって、もう一人のぼくが、たしなめる。はは、そうでした、そうでした。苦笑を浮かべながら、よし、とマッチを擦った。


 夕さりの(ほの)暗い空間に、明るい炎が、勢いよく燃え上がる。その炎の温もりが、ぼくの頬と心までも温かく(とも)してくれる。
 ふと、ぼくは思う。
 今日は、一本の煙草を吸うのにいろんなドラマがあったな、と。
 そのようにして得た一服は、いつにも増して美味しい味がするな、とも。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
 清々しい表情と心持ちで、少女に礼を述べて、貯金箱以上に価値のあるその、マッチ箱を返そうとした。
 あれ?
 どうしたことか、今までぼくの眼前にあった二つの影が、奇妙にも、忽然として消えていた……。
 
 
おしまい
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