第9話 ワイン
文字数 1,521文字
ワインボトルが一本、テーブルの上に置いてある。
これは昨日、彼女と二人で買ったもの。彼女がお金を払って、そのおつりをぼくがもらった。
「あしたは、キミの誕生日だからね」と、彼女は目を細めながら言って、終 ぞぼくが飲んだことのない一本数千円もする赤ワインを買ってくれた。
そして、ぼくは今夜、彼女に誕生日を祝ってもらっている。
テーブルの上には、赤ワイン用の大きなグラスと、小さなブリキのマグカップ。
「ワイングラスが一つしかないからね」
「だったら、ぼくがそっちでいいよ」
「いいの。きょうは、キミの誕生日だから」
いつものように、彼女は眼を細めながら言うと、ワイングラスをぼくの前に置いた。
ぼくは決定的に不器用。だから、ボトルのコルク栓は彼女が抜く。いたって器用に。
それから、彼女がお互いのグラスにワインを注ぐ。ぼくの方がちょっぴり多めに注いである。
「さあ、乾杯しましょう」
二人で目を細めながら、ちょこんとグラスを合わせた。
このように、ぼくの誕生日もさることながら、彼女はふだんから、なにかと優しい態度で接してくれる。
それって、ぼくがいま、失業中の身だから……。
それとも、ひとえにキミの優しさがそうさせるの……。
もんもんとした思いを持て余しながらも、ぼくは結局、彼女の優しさに甘えるばかりで、いつまでたっても、無為な日々を過ごしていた。
それにもかかわらず、彼女は、どんな時でも、目を細めながら、優しく、ぼくに接してくれた。
ただ、さすがのぼくも、次第に、良心のやましさに曇らされるようになる
このままで、いいのか?
やがて、ぼくの中で、なにかが弾けた。
いや、いいわけがない――。
その結果、ついにぼくはホゾを固めた。
冷たい雨が降る夜だった。その雨に、街はひっそりと沈んでいた。
閑古鳥が鳴く古めかしい喫茶店の、その片隅のテーブルの椅子。ウエイトレスなぞいない。だから、気兼ねなく話せる。
めずらしく、ぼくは、猫背なのをピンと伸ばし、毅然とした顔と口調で、彼女に告げていた。
「一人で、やり直してみようと思うんだ……」
あまりにも唐突な告白だったから、彼女は一瞬、面食らっていた。それでもしばらくすると、いつものように、目を細めて「わかった」とうなずいた。
どうしてよ――てっきり、腑に落ちないという顔をして、問いただされると思っていた。だから、腑に落ちないという顔をしたのは、むしろぼくの方だった。
けれどそれも、彼女の優しさのひとつだった。後になって気づく。先に気づけば、どれほど人生は楽か。でも人生は、結局のところ、皮肉で満ちている。
店を出た二人はその日、振り返ることもなく、右と左にわかれて、別々の道を進んで行った。
あいかわらず、冷たい雨が街を濡らしていた。
そんな中、ぼくの心を濡らしていたのは「空知らぬ雨」だった。
あれから、いくつもの季節が、瞬く間に、めぐった。
そして、ぼくは今日、人生で何度目かの誕生日迎えている。
テーブルには今夜も、ワインボトルが一本、置いてある。もちろん、赤。
これは昨日、かつてわかれた彼女と二人で買ったもの。
昨日は、ぼくがお金を払って、そのおつりを彼女がもらった。
テーブルの上には、ワイングラスが二つ。どちらも、うんと大きいヤツ。
今夜は、あの夜とはちがって、ぼくが器用にコルク栓を抜いて、それぞれのグラスにワインを注いだ。もちろん、彼女のグラスにちょっぴり多めに……。
乾杯! グラスを掲げて、ぼくは屈託のない笑みを浮かべる。
ぼくのグラスに、いつものように、彼女が眼を細めながら、「乾杯!! お誕生日おめでとう」とグラスをちょこんと合わせてくれた。
おしまい
これは昨日、彼女と二人で買ったもの。彼女がお金を払って、そのおつりをぼくがもらった。
「あしたは、キミの誕生日だからね」と、彼女は目を細めながら言って、
そして、ぼくは今夜、彼女に誕生日を祝ってもらっている。
テーブルの上には、赤ワイン用の大きなグラスと、小さなブリキのマグカップ。
「ワイングラスが一つしかないからね」
「だったら、ぼくがそっちでいいよ」
「いいの。きょうは、キミの誕生日だから」
いつものように、彼女は眼を細めながら言うと、ワイングラスをぼくの前に置いた。
ぼくは決定的に不器用。だから、ボトルのコルク栓は彼女が抜く。いたって器用に。
それから、彼女がお互いのグラスにワインを注ぐ。ぼくの方がちょっぴり多めに注いである。
「さあ、乾杯しましょう」
二人で目を細めながら、ちょこんとグラスを合わせた。
このように、ぼくの誕生日もさることながら、彼女はふだんから、なにかと優しい態度で接してくれる。
それって、ぼくがいま、失業中の身だから……。
それとも、ひとえにキミの優しさがそうさせるの……。
もんもんとした思いを持て余しながらも、ぼくは結局、彼女の優しさに甘えるばかりで、いつまでたっても、無為な日々を過ごしていた。
それにもかかわらず、彼女は、どんな時でも、目を細めながら、優しく、ぼくに接してくれた。
ただ、さすがのぼくも、次第に、良心のやましさに曇らされるようになる
このままで、いいのか?
やがて、ぼくの中で、なにかが弾けた。
いや、いいわけがない――。
その結果、ついにぼくはホゾを固めた。
冷たい雨が降る夜だった。その雨に、街はひっそりと沈んでいた。
閑古鳥が鳴く古めかしい喫茶店の、その片隅のテーブルの椅子。ウエイトレスなぞいない。だから、気兼ねなく話せる。
めずらしく、ぼくは、猫背なのをピンと伸ばし、毅然とした顔と口調で、彼女に告げていた。
「一人で、やり直してみようと思うんだ……」
あまりにも唐突な告白だったから、彼女は一瞬、面食らっていた。それでもしばらくすると、いつものように、目を細めて「わかった」とうなずいた。
どうしてよ――てっきり、腑に落ちないという顔をして、問いただされると思っていた。だから、腑に落ちないという顔をしたのは、むしろぼくの方だった。
けれどそれも、彼女の優しさのひとつだった。後になって気づく。先に気づけば、どれほど人生は楽か。でも人生は、結局のところ、皮肉で満ちている。
店を出た二人はその日、振り返ることもなく、右と左にわかれて、別々の道を進んで行った。
あいかわらず、冷たい雨が街を濡らしていた。
そんな中、ぼくの心を濡らしていたのは「空知らぬ雨」だった。
あれから、いくつもの季節が、瞬く間に、めぐった。
そして、ぼくは今日、人生で何度目かの誕生日迎えている。
テーブルには今夜も、ワインボトルが一本、置いてある。もちろん、赤。
これは昨日、かつてわかれた彼女と二人で買ったもの。
昨日は、ぼくがお金を払って、そのおつりを彼女がもらった。
テーブルの上には、ワイングラスが二つ。どちらも、うんと大きいヤツ。
今夜は、あの夜とはちがって、ぼくが器用にコルク栓を抜いて、それぞれのグラスにワインを注いだ。もちろん、彼女のグラスにちょっぴり多めに……。
乾杯! グラスを掲げて、ぼくは屈託のない笑みを浮かべる。
ぼくのグラスに、いつものように、彼女が眼を細めながら、「乾杯!! お誕生日おめでとう」とグラスをちょこんと合わせてくれた。
おしまい