第3話 柊
文字数 2,299文字
歳月人を待たず、とはいみじくも言ったものだ。今年も瞬く間に、十 もの歳月が、わたしの前を通り過ぎていった。
年が明けると、うちの息子は大学受験を迎える。いよいよ、ラストスパートということで、彼は今、寸暇を惜しんで、受験勉強に余念がない。
折しも、そんなある日の昼下がり――。
晩秋とはいいながら、窓を開けると、ネコの額ほどの庭に植えた柊 の梢 に、暖かみのある陽の光がやわらかくさしていた。
気分転換と合格祈願とを兼ねて、息子と二人、夙 に『受験の神様』としてその名を馳せる、神社へと詣 でた。
着くと、さっそく、お賽銭を奮発して、手のひらを合わせ、深々と、こうべを垂れた。
カミサマ、どうか、息子を合格させてくださいな、と殊勝に祈念しつつ。
ほどなく、そのこうべを挙げて、傍らの息子に、チラリ、目をくれた。
見ると、彼はまだ、神妙な面持ちで手のひらを合わせ、深々と、こうべを垂れている。
あら、まあ、いやだわ――つぶやいたその次の瞬間、心の底で停まっていた風景と、目前の風景とが、ぴたり、きれいに重なった。
それは、遠い昔のおはなし。わたしが幼少のみぎりの、まだ、スラリとしたスタイルだったころの――。
わが家の離れには往時、ツレを、とうに亡くしていた祖母が、独り気ままに暮らしていた。
そのわが家のほど近くに、稲荷のカミサマをお祀 りする、わりと大きな神社があった。
あれは、いったい、なんだったろう?
日常のふとした瞬間、閉じ込められていた記憶が、コンチワ、と微笑んで、ふいに顔を覗かせることがある。
それは、祖母との、なんとも奇妙な過去の思い出。
彼女は、思いのほか信仰心が篤かったとでもいうのだろうか――そう思わざるを得ないほど、彼女は、それこそ毎日のように、そのお稲荷様へと詣でていた。
もっとも、その都度、わたしの手を引いてお参りするのには、ほとほと閉口させられたものだ。
そればかりじゃない。
祖母はひとたび、こうべを垂れると、うんざりするほど長い時間、なかなか、それを挙げようとしなかった。
いったい、何を、そんなにお願いしているの――それが、子ども心にとても、不思議でならなかった。
しょうがないわね。
そのたびに、わたしは心の中でそうため息交じりにつぶやいて、渋々ながら、こうべを垂れていた。そうしながら、とりあえず、思いついたことをあれこれとお願いしていた。
でもそれが、毎日のようにつづく。それだけに、わたしのお願い事も、やがて、尽きてしまう。
はてさて、今日は、何をお願いしようか?
お願い事が尽きてしまったわたしは、半ば捨て鉢気味に「健康にしてくださいな」と、ひたすら、そればかりをお願いしていたものだった――。
それから、幾つもの齢 を重ねて、現在にいたっている。
しかし思うに、カミサマってお方は、よほど律儀なお方のようだ。だって、わたしを、ただ健康にしてくださるだけではなかったのだから……。
たしかに、わたしは「健康にしてくださいな」と、そればかりを毎日、判で押したように、お願いしていましたよ。そりゃ、半ば捨て鉢気味ではあったですけどね。
でも、だからといって、ねぇ……なにも、ここまでふくよかな体型にしてくださらなくても……ねぇ。
たぶんここは、ちがうカミサマなんだろうけれど、そう愚痴をこぼさずにはいられなかった。
いつまでも、息子が首を垂れている景色が、どうも、呼び水になったらしい。
そんなことを、ふとわたしは、懐かしく思い出していた。
さて、そろそろ、帰るわよ――そう告げようと思って、改めて、息子に一瞥 をくれた。
あら、まあ、やだ……思わず、わたしは目を丸く見開く。
だって、息子ときたら、まだ、深々とこうべを垂れているんだもの。
苦笑を含みながら、わたしは思う。
どうやら、彼は祖母の血を受け継いだようね、と。
やれやれ、しょうがないわね。かねてのように、付き合うとしますか……。
秋空の下いっそう背ぐくまって、わたしは、ふたたび、こうべを垂れる。
すると、徒 らにぽっこりと突き出たお腹が、否が応でも目に入る。
ため息交じりに、そこをさすりながら、カミサマ、と心の中で囁きかける。
その節は、わたしの願い事をこんなに律儀に叶えてくださって、ほんとうにありがとうございました。
さて、このたびはこうして、息子があなたサマにこうべを垂れる談になりました。かくも、彼は衷心よりあなたサマに祈願しております。かつてのわたしとは、まるで雲泥の差があるように。
つきましては、カミサマ。彼の願い事は、どうかわたし以上に律儀に叶えてやってくださいね。
もしも、律儀に叶えてくださったあかつきには――そこで、いったん、わたしは囁きを区切って、たれていたこうべを、ちょこんと上げる。
それから、あたりを、キョロキョロと見回す。
そっか、ここは天神様だったわね――うなずいたわたしはもう一度、こうべを垂れ直し、改めて、カミサマに、こう囁きかける。
カミサマ、わが家の庭には今、柊が植えてありますわ。でも息子の願いが叶ったあかつきには、それを全部引っこ抜いて、梅に植え替えさせていただきます。
柊はこれまで、わたしが大事に育ててきた、いとおしい木です。それを植え替えてでも、とお願いしてるんです。ですから、わたしの願いがどれほど切実か、よーく、おわかりですよね、カミサマ。
でも、ですよ。もしも、願い事が叶わなかったら、そのときは、ここに植えてある梅を全部引っこ抜いて、代わりに、柊に植え替えちゃいますからね。いいですね、カミサマ。
そこんとこよろしく……。
おしまい
年が明けると、うちの息子は大学受験を迎える。いよいよ、ラストスパートということで、彼は今、寸暇を惜しんで、受験勉強に余念がない。
折しも、そんなある日の昼下がり――。
晩秋とはいいながら、窓を開けると、ネコの額ほどの庭に植えた
気分転換と合格祈願とを兼ねて、息子と二人、
着くと、さっそく、お賽銭を奮発して、手のひらを合わせ、深々と、こうべを垂れた。
カミサマ、どうか、息子を合格させてくださいな、と殊勝に祈念しつつ。
ほどなく、そのこうべを挙げて、傍らの息子に、チラリ、目をくれた。
見ると、彼はまだ、神妙な面持ちで手のひらを合わせ、深々と、こうべを垂れている。
あら、まあ、いやだわ――つぶやいたその次の瞬間、心の底で停まっていた風景と、目前の風景とが、ぴたり、きれいに重なった。
それは、遠い昔のおはなし。わたしが幼少のみぎりの、まだ、スラリとしたスタイルだったころの――。
わが家の離れには往時、ツレを、とうに亡くしていた祖母が、独り気ままに暮らしていた。
そのわが家のほど近くに、稲荷のカミサマをお
あれは、いったい、なんだったろう?
日常のふとした瞬間、閉じ込められていた記憶が、コンチワ、と微笑んで、ふいに顔を覗かせることがある。
それは、祖母との、なんとも奇妙な過去の思い出。
彼女は、思いのほか信仰心が篤かったとでもいうのだろうか――そう思わざるを得ないほど、彼女は、それこそ毎日のように、そのお稲荷様へと詣でていた。
もっとも、その都度、わたしの手を引いてお参りするのには、ほとほと閉口させられたものだ。
そればかりじゃない。
祖母はひとたび、こうべを垂れると、うんざりするほど長い時間、なかなか、それを挙げようとしなかった。
いったい、何を、そんなにお願いしているの――それが、子ども心にとても、不思議でならなかった。
しょうがないわね。
そのたびに、わたしは心の中でそうため息交じりにつぶやいて、渋々ながら、こうべを垂れていた。そうしながら、とりあえず、思いついたことをあれこれとお願いしていた。
でもそれが、毎日のようにつづく。それだけに、わたしのお願い事も、やがて、尽きてしまう。
はてさて、今日は、何をお願いしようか?
お願い事が尽きてしまったわたしは、半ば捨て鉢気味に「健康にしてくださいな」と、ひたすら、そればかりをお願いしていたものだった――。
それから、幾つもの
しかし思うに、カミサマってお方は、よほど律儀なお方のようだ。だって、わたしを、ただ健康にしてくださるだけではなかったのだから……。
たしかに、わたしは「健康にしてくださいな」と、そればかりを毎日、判で押したように、お願いしていましたよ。そりゃ、半ば捨て鉢気味ではあったですけどね。
でも、だからといって、ねぇ……なにも、ここまでふくよかな体型にしてくださらなくても……ねぇ。
たぶんここは、ちがうカミサマなんだろうけれど、そう愚痴をこぼさずにはいられなかった。
いつまでも、息子が首を垂れている景色が、どうも、呼び水になったらしい。
そんなことを、ふとわたしは、懐かしく思い出していた。
さて、そろそろ、帰るわよ――そう告げようと思って、改めて、息子に
あら、まあ、やだ……思わず、わたしは目を丸く見開く。
だって、息子ときたら、まだ、深々とこうべを垂れているんだもの。
苦笑を含みながら、わたしは思う。
どうやら、彼は祖母の血を受け継いだようね、と。
やれやれ、しょうがないわね。かねてのように、付き合うとしますか……。
秋空の下いっそう背ぐくまって、わたしは、ふたたび、こうべを垂れる。
すると、
ため息交じりに、そこをさすりながら、カミサマ、と心の中で囁きかける。
その節は、わたしの願い事をこんなに律儀に叶えてくださって、ほんとうにありがとうございました。
さて、このたびはこうして、息子があなたサマにこうべを垂れる談になりました。かくも、彼は衷心よりあなたサマに祈願しております。かつてのわたしとは、まるで雲泥の差があるように。
つきましては、カミサマ。彼の願い事は、どうかわたし以上に律儀に叶えてやってくださいね。
もしも、律儀に叶えてくださったあかつきには――そこで、いったん、わたしは囁きを区切って、たれていたこうべを、ちょこんと上げる。
それから、あたりを、キョロキョロと見回す。
そっか、ここは天神様だったわね――うなずいたわたしはもう一度、こうべを垂れ直し、改めて、カミサマに、こう囁きかける。
カミサマ、わが家の庭には今、柊が植えてありますわ。でも息子の願いが叶ったあかつきには、それを全部引っこ抜いて、梅に植え替えさせていただきます。
柊はこれまで、わたしが大事に育ててきた、いとおしい木です。それを植え替えてでも、とお願いしてるんです。ですから、わたしの願いがどれほど切実か、よーく、おわかりですよね、カミサマ。
でも、ですよ。もしも、願い事が叶わなかったら、そのときは、ここに植えてある梅を全部引っこ抜いて、代わりに、柊に植え替えちゃいますからね。いいですね、カミサマ。
そこんとこよろしく……。
おしまい