第2話 それぞれのこだわり
文字数 1,462文字
とりわけ、ぼくは食にこだわりを持っている。
それもあって、食材の産地にも一家言ある。たとえば、ネギなら『九条』、地鶏なら『比内』、大根なら『練馬』、あと他にも色々……。
透き通った空の青さが広がる晩秋の、ある休日の朝。
ダイニングテーブルに腰を下ろしたぼくは、食後のコーヒーを美味しく啜りながら、朝刊に眼を通していた。
すると、テーブルの斜向かいに座り、新聞広告に眼を凝らしていた妻が、さながら今日の空のような温もりのある笑みを浮かべて、こう言うではないか。
「今日の晩御飯は、ステーキでも焼きますか」
「おっ、いいねえ」
それを聞いたぼくは、だらしなく頬をゆるめてうなずく。
ぼくが食材にこだわっているのをもちろん、妻は知っている。
ふふ、どこ産の肉だろうか――勝手に、ぼくは妄想を弄ぶ。
神戸、松坂、それとも、近江?
そんなふうに、妄想するだけで、もうよだれが……。
いつもは仕事に追われて、慌ただしい、日の暮れを迎えている。
がしかし、今日は日曜日。おまけに、こんな話を、朝から聞いてしまった。
だから、今日は日の暮れを待ちかねるようにして、迎えなくてはならない。
しかし思うに、時間というのはとても、不思議だ。
もちろん、時間は、時代の流れや場所の違いによって変わるものではなく、刻々均一に経過している。
にもかかわらず、気持ちの持ちよう一つで、時間は長く感じたり短く感じたりもする。
今日は、むろん、長く感じるほうだ。
それでも、午後から、ガソリンスタンドに行って、給油したり洗車したりとせわしなくしていると、いい具合に時間が過ぎていった。
それを終えて自宅に戻ると、ぼくは、二階の書斎で読書しながら、そのときが来るのを今か今かと待ちわびていた。
美しい残照に染まっていた空の色が、やがて、紫色に変わりはじめた。
そんな中、ステーキの焼けるいい匂いが、書斎まで漂ってきた。
うう、これはたまらんぞ――今か今かと待ちわびていたぶん、すこぶる食指が動く。腹の虫を鳴らしながら、ぼくは、階段を駆けるように降りる。
そして、ワインセラーから、愛飲するキャンティを取り出し、そそくさと食卓につく。
ワインオープナーでコルク栓を抜いて、ぼくと妻のワイングラスに、キャンティを注ぐ。これで、準備は万端。あとは、ステーキが焼き上がるのを待つばかり。
ほどなく、鉄板に乗ったステーキを、妻が、ぼくの前に並べる。
うーん、いい匂いだ。
さっそく、肉を切って頬張る。いい焼き加減だ。もちろん、レア。
「ところで、これは、どこ産だい?」
頬をほころばせながら、妻に訊く。
だが、妻はなぜか、言い澱んでいる。
ぼくはけげんそうな顔で、妻の面持ち窺う。
見ると、彼女は、鼻の先に皺を寄せながら、唇をもぞもぞさせている。
あっ、これは、ひょっとして、あれじゃないか。笑ってしまおうか、どうしょうかというときの、いつもの妻の癖じゃないか。いったい、彼女は、なにが可笑しいというんだ――やや憮然とした顔で、ぼくは、妻にいぶかった眼差しをむける。
わずかな間のあとで、妻が口を開く。
「実は今日のはね、わたしのこだわりなのよ」
「きみのこだわり⁈ ふーん、どんな?」
「家計よ。給料日前でしょ。だから、家計にこだわったの。というわけで、今日のステーキは、あれよ」
あれって? ぼくは固唾を飲んで、妻の唇を見守った。やがて、妻の唇から酷薄なことばがこぼれ落ちる。
「このステーキはねぇ、なんと……スーパーの広告の品でした」
「あ、あっそ……」
おしまい
それもあって、食材の産地にも一家言ある。たとえば、ネギなら『九条』、地鶏なら『比内』、大根なら『練馬』、あと他にも色々……。
透き通った空の青さが広がる晩秋の、ある休日の朝。
ダイニングテーブルに腰を下ろしたぼくは、食後のコーヒーを美味しく啜りながら、朝刊に眼を通していた。
すると、テーブルの斜向かいに座り、新聞広告に眼を凝らしていた妻が、さながら今日の空のような温もりのある笑みを浮かべて、こう言うではないか。
「今日の晩御飯は、ステーキでも焼きますか」
「おっ、いいねえ」
それを聞いたぼくは、だらしなく頬をゆるめてうなずく。
ぼくが食材にこだわっているのをもちろん、妻は知っている。
ふふ、どこ産の肉だろうか――勝手に、ぼくは妄想を弄ぶ。
神戸、松坂、それとも、近江?
そんなふうに、妄想するだけで、もうよだれが……。
いつもは仕事に追われて、慌ただしい、日の暮れを迎えている。
がしかし、今日は日曜日。おまけに、こんな話を、朝から聞いてしまった。
だから、今日は日の暮れを待ちかねるようにして、迎えなくてはならない。
しかし思うに、時間というのはとても、不思議だ。
もちろん、時間は、時代の流れや場所の違いによって変わるものではなく、刻々均一に経過している。
にもかかわらず、気持ちの持ちよう一つで、時間は長く感じたり短く感じたりもする。
今日は、むろん、長く感じるほうだ。
それでも、午後から、ガソリンスタンドに行って、給油したり洗車したりとせわしなくしていると、いい具合に時間が過ぎていった。
それを終えて自宅に戻ると、ぼくは、二階の書斎で読書しながら、そのときが来るのを今か今かと待ちわびていた。
美しい残照に染まっていた空の色が、やがて、紫色に変わりはじめた。
そんな中、ステーキの焼けるいい匂いが、書斎まで漂ってきた。
うう、これはたまらんぞ――今か今かと待ちわびていたぶん、すこぶる食指が動く。腹の虫を鳴らしながら、ぼくは、階段を駆けるように降りる。
そして、ワインセラーから、愛飲するキャンティを取り出し、そそくさと食卓につく。
ワインオープナーでコルク栓を抜いて、ぼくと妻のワイングラスに、キャンティを注ぐ。これで、準備は万端。あとは、ステーキが焼き上がるのを待つばかり。
ほどなく、鉄板に乗ったステーキを、妻が、ぼくの前に並べる。
うーん、いい匂いだ。
さっそく、肉を切って頬張る。いい焼き加減だ。もちろん、レア。
「ところで、これは、どこ産だい?」
頬をほころばせながら、妻に訊く。
だが、妻はなぜか、言い澱んでいる。
ぼくはけげんそうな顔で、妻の面持ち窺う。
見ると、彼女は、鼻の先に皺を寄せながら、唇をもぞもぞさせている。
あっ、これは、ひょっとして、あれじゃないか。笑ってしまおうか、どうしょうかというときの、いつもの妻の癖じゃないか。いったい、彼女は、なにが可笑しいというんだ――やや憮然とした顔で、ぼくは、妻にいぶかった眼差しをむける。
わずかな間のあとで、妻が口を開く。
「実は今日のはね、わたしのこだわりなのよ」
「きみのこだわり⁈ ふーん、どんな?」
「家計よ。給料日前でしょ。だから、家計にこだわったの。というわけで、今日のステーキは、あれよ」
あれって? ぼくは固唾を飲んで、妻の唇を見守った。やがて、妻の唇から酷薄なことばがこぼれ落ちる。
「このステーキはねぇ、なんと……スーパーの広告の品でした」
「あ、あっそ……」
おしまい