第20話 親子

文字数 2,549文字

 折しも木々の若葉がまぶしい深緑の候。その寂れた夕暮れ。
 ここは、都心から離れた下町。いや、山の手の住人に言わせると、都心から離れたところで下町と呼ばれているのは「単なる東京の田舎町」らしいのだが、といって、いちおう、23区内にはちがいない……。
 そこで暮らしを営むぼくはいま、やっと仕事が終わり、帰宅の途についたところ。
 ぼくの住まいのほど近くに、街を縦断するように川が流れている。そのほとりには、江戸情緒漂う小粋な遊歩道が整備されている。そこを、ぼくはいま、てくてく歩いている――。
 この川は江戸時代に塩の道として栄え、数多の船が行き来していたという。それで遊歩道には、往時を忍ばせる様々な細工が施され、区民の目を楽しませてくれている。
 川面で、西に傾きかけた陽の光の欠片が、まばゆくちらちらと揺れている。頬を撫でていく風が、ちょっぴり冷たくなった。まもなく、陽が暮れるらしい。風情ある川面の景色を、ぼくは見るともなく見ながら、家路をいそぐ。
 そんな中、カルガモの親子が後方から泳いできて、スイスイとぼくを追い越して行った。
 江戸情緒漂う遊歩道にカルガモの親子――なんともいえないこのほのぼのとした景色に、ぼくの頬がふっと、ほころぶ。けれど、それはすぐにこわばってしまった。
 なぜかというと、先日遭遇した心が痛むような出来事がふと、ぼくの頭をかすめたからだ。
 
 
 その日も、この川のほとりを歩いていたぼくは、今日のように、カルガモの親子に出くわしていた。
 ただ、今日とちがって、ぼくはその日、上流に向かって歩いていた。というのも、会社に忘れ物をしたからだ。カルガモの親子は、だから、下流へと泳いでいたことになる。
 ややあって、子ガモが一羽、上流に向かって泳いでいるのに遭遇した。
 「え?」
 ぼくは一瞬、わが目を疑った。どう考えたって、この子ガモくん、さっきの群れからはぐれてしまったとしか思えないからだ。
 親からはぐれて、一羽、迷子になってしまった子ガモ……いや、そんな悠長なことを考えてる場合じゃないぞ、とぼくは自分に言い聞かせる。
 その次の瞬間、ぼくはもう、「おい、子ガモ、そっちじゃないぞ!」と人目をはばからず、かなり大きな声で叫んでいた。
 そのとき、前方から、こっちに向かってランニングしてくる人の姿があった。初老の男性だった。当然のように、彼はけげんそうな顔で「どうしたんですか?」と尋ねてくる。ぼくは、いきさつを手短に説明して、川の中央に顎をしゃくった。
 そこに視線を送った初老の男性は、こりゃ、一大事とばかりに、子ガモに向かって叫んだ。
「なにしてんだよ、おまえ! そっちじゃねぇだろ!!」
 ちょうどそのとき、一台の自転車が通りがかった。
「どうしたんですか?」
 やはり、尋ねてくる。今度は、若い男性。さっきと同じように、ぼくは状況を説明した。
「そいつは、大変だ!」
 そうつぶやくと、彼はもう、自転車を漕いで子ガモを追いかけ出した。見つけると、やっぱり、大きな声で「おい、そっちは反対だぞ!」と叫んだ。だが――。
 子ガモくんは馬耳東風で、むしろ上流へと、どんどん、泳いで行くのだった……。
 
 
 まったく、バカなんだから、とぼくは心の中で毒づく。毒づいたあとで、なにより子ガモがフビンに思えて、胸がジーンと熱くなった。
 そうこうしているうちに、川のほとりに、ぞくぞくと野次馬が集まりだした。集まった人たちは「ばか、そっちじゃないだろう」とか「いったい、何やってんだよ、まったく」とか、そういった怒りとも呆れともつかない声を子ガモにぶつける。
 でもこの子ガモくん、人間の懸念など歯牙にもかけず、ますます、上流へと泳いでゆく。
「えーい、こうなったら」と中には、子ガモくんの行く手に石を投げるつけるという、そんな強硬手段に訴えるご仁まで現れた。川のほとりが、にわかに喧しくなる。
 にもかかわらず、この子ガモくん、人間の心の事情などお構いなしに、三十メートルあまりの川幅の中央を悠然と泳いでいる。
 ただ、そんなところを泳がれたのでは、いくら大の大人が何人集まったとしても、手の打ちようがない。結局のところ、ぼくたち人間は、ただ指をくわえて見守るしかほかなかった。
 やがて、集まった人たちは「こりゃ、どうしょうもねぇな」とあきらめ交じりのため息をつくと、ここが潮時とばかりに、その場から、三々五々引き上げていった。
 しかたない、ぼくもあきらめるとするか――後ろ髪引かれる思いを持て余しながら、ぼくはしゅんと肩をすぼめ、重い足を引きずるようにして会社に戻って行った……。
 
 
 そんなことを思い出しながら歩いていると、陽は、すっかり西の空に傾いていた。
 薄暮の中、いま、ぼくの胸の中にあるのはくやしさとしか言いようのない憤りと、そして寂しさだった。
 それからしばらく歩いていると、一見して親子と思しき二人が、こっちに向かって歩いくるのが目に入った。
 母親らしき人物に目をくれる。見ると、タイトなスーツをカッコよく着こなし、ヘアもメークもばっちり決めている。
 へぇ、カッコいいじゃん――そう目を瞠るほど、お母さんの風貌は、このあたりではめずらしくイカしていた。
 会社帰りのようだ。おそらくは、仕事が終わり保育園に預けていたわが子を迎えに行きようやく帰途についた、と、まあ、だいたい、そういうところだろう。
 やがて、すれ違う。香水のいい匂いが、川面を渡る風に乗ってぼくの鼻腔を擽る。ドルチェ&ガッバーナ、ではなかったけれど……。
 するとそのとき、お母さんがふいに、傍らを歩く子どもにささやきかけた。それが、くっきりとぼくの耳にとまる。
「ねぇ、はらへった」
「うん」
「そ、じゃ、帰ったら、すぐにメシの用意するよ」
「オッケー」
 
 
 ここは、都心からちょっと離れた「単なる東京の田舎町」と揶揄される、そんな下町。
 だからこそ、この親子のように口の悪さの向こうに仲の良い生活がうかがえる、そんな下町でもある。
 ひょっとして、あの子ガモくんも、こんな街で生まれ育ったからーーふと、そんな考えが頭をよぎった。
 するとぼくは、むしょうに、わが子のことが気になって、いっさんに、夕陽に向かって駆け出していた。
 
 
 
おしまい
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