第1話 ことばに言い表せない想い……
文字数 1,491文字
「あのさぁ、母さん」
ある日の晩、リビングのソファーでくつろいでいると、中学生の息子が、突然、声をかけて来た。
「なに?」
訊くと、息子は、こう切り返した。
「今日の美術の時間にさぁ、先生が、ある画家の絵をやたらほめるんだ。でもぼくには、その絵の良さが、さっぱりわかんなくってさ……」
「へぇ、どの人の絵?」
尋ねると息子は、手にしていた美術の本のページを、パラパラ、とめくった。そうして、「これ」と指差した。
どれどれ。
見ると、そこには、キュビズムの巨匠の絵画があった。
ああ、なるほど、彼の絵かぁ。それなら、無理もないわ。だって、わたしも彼の絵をはじめて見たとき、息子と同じ感想を抱いたものよ……。
そんなことを懐かしく思い出しながら、わたしは、大学時代の講義で教わった話しを息子に聞かせてやった。
「あのね、絵画ってね。ことばで言いあらわせない想いを、キャンバス上に表現するって言われてるの」
「ことばに言い表せない想いを……ふーん、そうなんだ。ことばに言い表せない想いをね」
わたしのことばを反芻した息子の頬が、思いなしかゆるんだ、ような気がした。
なんだか、いやな予感――でも息子は、わたしの心情など歯牙にもかけず、そそくさと自分の部屋へ戻って行った。
それからしばらくして、息子がわたしの前に、ふたたび、姿を現わした。
すると、だしぬけに、一枚の絵をひょいとわたしの眼前に差し出した。なんとなく意味深な笑みを浮かべて……。
「こ、これは、なに?」
けげんそうな顔と口調で訊いた。さっき感じた嫌な予感がふと、頭をよぎる。
でも息子は黙って、わたしの顔をじっと見つめているだけ……。
な、なによ、気持ち悪いなぁ、まったく。
眉をひそめながらも、改めて、その絵をしげしげと見つめた。
抽象画である。なんだか、かまぼこの板を一回り大きくしたような感じの……。
うーん、なんなの、これ?
腕を組んで、わたしは必死に考える。
ほどなく、ハッとした。
うん⁈ これは、もしかすると、さっき、わたしが教えた「ことばに言い表せない想い」という、あれかしら?
わたしの胸のうちを見て取ったとでもいうのか、息子は、いかにも勝ち誇ったような顔をして、鷹揚に、頬をゆるめる。
むしょうに、腹が立つ――だいたい、近ごろ、ますます生意気になってきちゃって、腹にすえかねていたのよね。いったい、だれに似たのかしら。
ハ、ハ、ハークション!
気色ばんで首をかしげたら、隣の部屋から、旦那の大きなクシャミがこっちの部屋まで聞こえてきた。
ぎこちない沈黙。
もっともこれは、息子に、あきらかに一本取られたようだ。
なにしろ、息子がわたしに見せたのは、かねて彼が欲しがっていた『スマホ』の絵なのだから……。
ただし、それは、かのキュビズムの巨匠の絵画のように、デフォルメされて描かれていたのだけれど。
まったく、こざかしいんだから。
ため息交じりに、心の中で毒づいた。
その週末――。
わたしは今、息子と一緒に、駅前にあるスマホショップの、そのカウンター席に腰を下ろしている。
今にして思えば、わたしが今日、ここにいるのも、息子が、かのキュビズムの巨匠の話を持ち込んできたのを契機としている。
巨匠はその昔、次々と女性を翻弄し、それをバネに新たな画風を作り、やがて、インスピレーションの源となった、その彼女たちも破壊したそうな。
巨匠――あなたは、死してなお、女性を翻弄していらっしゃってよ。わたしも、あなたにかかわったばかりに、想定外の出費。
哀れ、わたしのヘソクリまで破壊されましたわよ、トホホ……。
〈了〉
ある日の晩、リビングのソファーでくつろいでいると、中学生の息子が、突然、声をかけて来た。
「なに?」
訊くと、息子は、こう切り返した。
「今日の美術の時間にさぁ、先生が、ある画家の絵をやたらほめるんだ。でもぼくには、その絵の良さが、さっぱりわかんなくってさ……」
「へぇ、どの人の絵?」
尋ねると息子は、手にしていた美術の本のページを、パラパラ、とめくった。そうして、「これ」と指差した。
どれどれ。
見ると、そこには、キュビズムの巨匠の絵画があった。
ああ、なるほど、彼の絵かぁ。それなら、無理もないわ。だって、わたしも彼の絵をはじめて見たとき、息子と同じ感想を抱いたものよ……。
そんなことを懐かしく思い出しながら、わたしは、大学時代の講義で教わった話しを息子に聞かせてやった。
「あのね、絵画ってね。ことばで言いあらわせない想いを、キャンバス上に表現するって言われてるの」
「ことばに言い表せない想いを……ふーん、そうなんだ。ことばに言い表せない想いをね」
わたしのことばを反芻した息子の頬が、思いなしかゆるんだ、ような気がした。
なんだか、いやな予感――でも息子は、わたしの心情など歯牙にもかけず、そそくさと自分の部屋へ戻って行った。
それからしばらくして、息子がわたしの前に、ふたたび、姿を現わした。
すると、だしぬけに、一枚の絵をひょいとわたしの眼前に差し出した。なんとなく意味深な笑みを浮かべて……。
「こ、これは、なに?」
けげんそうな顔と口調で訊いた。さっき感じた嫌な予感がふと、頭をよぎる。
でも息子は黙って、わたしの顔をじっと見つめているだけ……。
な、なによ、気持ち悪いなぁ、まったく。
眉をひそめながらも、改めて、その絵をしげしげと見つめた。
抽象画である。なんだか、かまぼこの板を一回り大きくしたような感じの……。
うーん、なんなの、これ?
腕を組んで、わたしは必死に考える。
ほどなく、ハッとした。
うん⁈ これは、もしかすると、さっき、わたしが教えた「ことばに言い表せない想い」という、あれかしら?
わたしの胸のうちを見て取ったとでもいうのか、息子は、いかにも勝ち誇ったような顔をして、鷹揚に、頬をゆるめる。
むしょうに、腹が立つ――だいたい、近ごろ、ますます生意気になってきちゃって、腹にすえかねていたのよね。いったい、だれに似たのかしら。
ハ、ハ、ハークション!
気色ばんで首をかしげたら、隣の部屋から、旦那の大きなクシャミがこっちの部屋まで聞こえてきた。
ぎこちない沈黙。
もっともこれは、息子に、あきらかに一本取られたようだ。
なにしろ、息子がわたしに見せたのは、かねて彼が欲しがっていた『スマホ』の絵なのだから……。
ただし、それは、かのキュビズムの巨匠の絵画のように、デフォルメされて描かれていたのだけれど。
まったく、こざかしいんだから。
ため息交じりに、心の中で毒づいた。
その週末――。
わたしは今、息子と一緒に、駅前にあるスマホショップの、そのカウンター席に腰を下ろしている。
今にして思えば、わたしが今日、ここにいるのも、息子が、かのキュビズムの巨匠の話を持ち込んできたのを契機としている。
巨匠はその昔、次々と女性を翻弄し、それをバネに新たな画風を作り、やがて、インスピレーションの源となった、その彼女たちも破壊したそうな。
巨匠――あなたは、死してなお、女性を翻弄していらっしゃってよ。わたしも、あなたにかかわったばかりに、想定外の出費。
哀れ、わたしのヘソクリまで破壊されましたわよ、トホホ……。
〈了〉