第28話 ペルソナの下のわたし 第三話
文字数 1,917文字
議論は、混沌の渦の中をさまよっていた。
そんなとき、居合わせた一人、わりと勉強のできるユミが、こんなことを言い出した。
「わたし思うんだ。これって、ヤマアラシのジレンマじゃないかな、って」
「え⁈ ヤマアラシのジレンマ……って、それ、なに?」
居合わせたみなが、口をぽかーんと開けて、お互い顔を見合わせた。
「あら、以外だわ……みなさん、ご存知なかったの?」
だったら――と、ユミが、さも誇らしげに、それについて説明する。
「ヤマアラシはね、仲良くなろうと思って相手に近づけば近づくほど、お互いが傷つけ合うの。それは当然よね。ほら、だって、彼らは、体全体が針に覆われているでしょ、だから」
あ、なるほど。近づけば近づくほど相手の針が刺さって、お互い痛い思いをするってことね。
それは、理解できた。
けれど、トモミ夫妻がわかれた件と、このセオリーが、どう繋がるのか――それが、わたしには、さっぱりわからなかった。
わたしはそこで、その疑問を素直に、ユミにぶつけてみた。
するとユミは、もったいぶるように、たっぷりと間をおいたあとで、こう言った。
「このセオリーはわれわれ人間にも、実は当てはまるのよ」
え⁈ どんなふうに当てはまるっていうのよ。
わたしだけでなく、みんなの目が、そう言っていた。
それは織り込み済みよ――みたいな顔をして、鷹揚に、ユミが説明する。
「たとえば、仲のいい夫婦がいたとするわ。二人はいま以上に、相手のことを理解したいと思ってる。そう思った二人は、お互いの距離を縮めて、より理解を深めようとするわ。だからといって、いたずらに距離を縮めようとすると、その二人も、ヤマアラシのように、かえってお互いが傷つけ合うというジレンマに陥ることがあるそうよ。これがヤマアラシのジレンマだわ」
なるほど。それって、まさにトモミ夫妻じゃない。
わたしは内心そう思って膝を打つ。
そこに居合わせたみんなも、ほんとうだ、これって、まさにトモミ夫妻だわ、とまんざらでもない様子で、うなずいていた。
ユミのこの発言以降、議論は、このセオリーに基づいて進められていった。
といって、議論の割り合いは、無駄なおしゃべり6分、この件について4分という、いかにもわたしたちらしいものではあったのだけれど……。
「それを聞いてて、わたし思ったんだけどさ……」
今度は、わたしと妙に馬が合うアキコが口を開いた。
「わたしたちって、お互いの心理的距離が近くなればなるほど、お互いが理解し合えるって思ってるじゃない」
「うん……まあ、ふつう、そう思うよね」
わたしを含めたみんなが、うなずく。
アキコは「でもさぁ」と口調を改めると、ため息交じりに、こうつづけた。
「このセオリーの顰にならうなら必ずしも、そうなるとは限らないじゃない」
うん⁈ どういうこと?
わからないという感じで、わたしは首をかしげる。
「だって、そうじゃない。ヤマアラシのジレンマは、お互いの距離が縮まれば、かえってお互いが傷つけ合うってことでしょ。それは、心の距離だって同じじゃない」
「ああ、そういうことね」
間髪を入れず、わたしは相槌を打つ。
「たしかに、十分に話し合えば、相手と同じ考え同じ気持ちになれるって、とかく、わたしたちは考えがちだわ。だけど、必ずしもそうとは限らないんだよね。いえ、むしろ、そうならないことのほうが多いかもしれないわ……」
そう言って、わたしも、ため息をつく。
わずかな間のあとで、アキコがつぶやく。
「そうなのよ……皮肉なことにさ、語り合えば語り合うほど、それまで気づかなかったお互いの価値観のズレみたいなものに、気づいちゃったりするのよ」
身につまされるようなアキコの話ぶりに、わたしはドキッとして、思わずうろたえてしまう。
でもアキコは、あくまでもマイペースで、淡々と、話しをつづける。
「するとさ、お互いが理解し合ってたって思ってたのが、実はそうじゃなかった、なんてことにも気づくんだよ。そうするとお互い気まずくなっちゃってさ……」
え! ひょとして、アキコのところが、そうなの?
ということばは、からくも飲み込んだ。
「あ、ごめん。ちょっとお花摘みに行ってくる」
急に、トイレを口実に、アキコが席を立った。それで、話は尻切れとんぼになったから、アキコがなにを言いたかったか、わたしには、さっぱりわからなかった。
けれど、それは後日、知ることになる――。
ともあれ、そういうわけで、トモミ夫妻がわかれた理由は、二人が理解を深めようとしすぎたから、という奇妙な結論に至ったのだった……。
つづく
そんなとき、居合わせた一人、わりと勉強のできるユミが、こんなことを言い出した。
「わたし思うんだ。これって、ヤマアラシのジレンマじゃないかな、って」
「え⁈ ヤマアラシのジレンマ……って、それ、なに?」
居合わせたみなが、口をぽかーんと開けて、お互い顔を見合わせた。
「あら、以外だわ……みなさん、ご存知なかったの?」
だったら――と、ユミが、さも誇らしげに、それについて説明する。
「ヤマアラシはね、仲良くなろうと思って相手に近づけば近づくほど、お互いが傷つけ合うの。それは当然よね。ほら、だって、彼らは、体全体が針に覆われているでしょ、だから」
あ、なるほど。近づけば近づくほど相手の針が刺さって、お互い痛い思いをするってことね。
それは、理解できた。
けれど、トモミ夫妻がわかれた件と、このセオリーが、どう繋がるのか――それが、わたしには、さっぱりわからなかった。
わたしはそこで、その疑問を素直に、ユミにぶつけてみた。
するとユミは、もったいぶるように、たっぷりと間をおいたあとで、こう言った。
「このセオリーはわれわれ人間にも、実は当てはまるのよ」
え⁈ どんなふうに当てはまるっていうのよ。
わたしだけでなく、みんなの目が、そう言っていた。
それは織り込み済みよ――みたいな顔をして、鷹揚に、ユミが説明する。
「たとえば、仲のいい夫婦がいたとするわ。二人はいま以上に、相手のことを理解したいと思ってる。そう思った二人は、お互いの距離を縮めて、より理解を深めようとするわ。だからといって、いたずらに距離を縮めようとすると、その二人も、ヤマアラシのように、かえってお互いが傷つけ合うというジレンマに陥ることがあるそうよ。これがヤマアラシのジレンマだわ」
なるほど。それって、まさにトモミ夫妻じゃない。
わたしは内心そう思って膝を打つ。
そこに居合わせたみんなも、ほんとうだ、これって、まさにトモミ夫妻だわ、とまんざらでもない様子で、うなずいていた。
ユミのこの発言以降、議論は、このセオリーに基づいて進められていった。
といって、議論の割り合いは、無駄なおしゃべり6分、この件について4分という、いかにもわたしたちらしいものではあったのだけれど……。
「それを聞いてて、わたし思ったんだけどさ……」
今度は、わたしと妙に馬が合うアキコが口を開いた。
「わたしたちって、お互いの心理的距離が近くなればなるほど、お互いが理解し合えるって思ってるじゃない」
「うん……まあ、ふつう、そう思うよね」
わたしを含めたみんなが、うなずく。
アキコは「でもさぁ」と口調を改めると、ため息交じりに、こうつづけた。
「このセオリーの顰にならうなら必ずしも、そうなるとは限らないじゃない」
うん⁈ どういうこと?
わからないという感じで、わたしは首をかしげる。
「だって、そうじゃない。ヤマアラシのジレンマは、お互いの距離が縮まれば、かえってお互いが傷つけ合うってことでしょ。それは、心の距離だって同じじゃない」
「ああ、そういうことね」
間髪を入れず、わたしは相槌を打つ。
「たしかに、十分に話し合えば、相手と同じ考え同じ気持ちになれるって、とかく、わたしたちは考えがちだわ。だけど、必ずしもそうとは限らないんだよね。いえ、むしろ、そうならないことのほうが多いかもしれないわ……」
そう言って、わたしも、ため息をつく。
わずかな間のあとで、アキコがつぶやく。
「そうなのよ……皮肉なことにさ、語り合えば語り合うほど、それまで気づかなかったお互いの価値観のズレみたいなものに、気づいちゃったりするのよ」
身につまされるようなアキコの話ぶりに、わたしはドキッとして、思わずうろたえてしまう。
でもアキコは、あくまでもマイペースで、淡々と、話しをつづける。
「するとさ、お互いが理解し合ってたって思ってたのが、実はそうじゃなかった、なんてことにも気づくんだよ。そうするとお互い気まずくなっちゃってさ……」
え! ひょとして、アキコのところが、そうなの?
ということばは、からくも飲み込んだ。
「あ、ごめん。ちょっとお花摘みに行ってくる」
急に、トイレを口実に、アキコが席を立った。それで、話は尻切れとんぼになったから、アキコがなにを言いたかったか、わたしには、さっぱりわからなかった。
けれど、それは後日、知ることになる――。
ともあれ、そういうわけで、トモミ夫妻がわかれた理由は、二人が理解を深めようとしすぎたから、という奇妙な結論に至ったのだった……。
つづく