第33話 天使がくれた魔法のことば 後編
文字数 1,674文字
「――まあ、今回だけは、勘弁してやるよ」
男性の唇からこぼれ落ちてきたことばは、存外なものだった。
「その代わり、今度また同じようなことがあったら、そんときはしょうちしないからな。それと、あれだ。ここだけじゃなくてどこでもそうだが、自転車を出すときは後ろに人がいないかどうか確認してから出すようにするんだ。いいな」
相変わらず、男性の顔つきは険しかった。けれど、彼が紡ぎ出すことばは、非常に、優しく、ぼくの耳にふれた。
男性が注意し終わると、少年のこわばっていた頬が、ふっと、ゆるんだ。そこに、直立不動で突っ立っていたからだも一緒に、ふっと。しかもそれと同時に、ぼくの頬とからだも、ふっと。
安心したのか。少年はさっきまでのおっかなびっくりした口調を一変させて、今度は大きな声ではっきりと「ごめんなさい、今後気をつけます」と謝罪のことばを述べて、深々と首を垂れた。
やれやれ――胸中穏やかでいられなかったぼくは安堵の息を、深く、つく。
ペダルを漕いで帰る少年の後ろ姿が、思いなしか弾んでいる、ように見えた。
よかったな。その背中に、小さく、つぶやいた。
そのとき、ふとぼくは思った。
「ごめんなさい」
おずおずながらも、少年は逡巡することなく、そう謝って首を垂れていた。
だからこそ、この男性も頭ごなしに叱ることなく、むしろ、優しいことばを返していたのにちがいない、と。
かねがねぼくは、思っている。
ごめんなさい――これは、天使がくれた魔法のことばじゃないだろうか、と。
たった六文字の短いことば。されど、この短いことばが、その場の剣吞な空気を、たちどころにゆるめてくれる。
そういった力を秘めた、不思議なことば。
昨今、ネット社会の中などでは、心ないことばで満ちあふれている。そういう時代にあって、人と人の心を紐帯(ちゅうたい)することばが、この「ごめんなさい」ではないか、とぼくは思うのだ。
ぼくは今夜、まさに「ごめんなさい」の魔法の力を目の当たりにしていた。
でもな――と、すぐにぼくは思い直し、浮かない眉をひそめる。
なぜなら、たった六文字の、このことばが、なかなか、口をつかない人が少なからずいるからだ。
テレビのニュースを見ながら、思わず唇を噛み締める、そんな夜がぼくには、ある。
「ごめんなさい」と一言謝ってさえいれば、こんな酸鼻を極める事件には発展しなかったんじゃないか、と思って。
今夜の、この一件に遭遇したぼくは、そんなことを考えながら、やっと、コンビニの中へと足を踏み入れた。
早く、喉を潤したいもんだな。
ハラハラドキドキしながら、この一件を見守っていたものだから、よけいに喉が乾いてしまった。
足早に、ぼくは飲料水売り場に向かう。冷凍庫の扉を開ける。ふわっと、冷気が全身を包む。
ひゃー、気持ちいい。
思わずぼくはうなってしまう。
缶ビールを取り出そうと、手を伸ばした。その瞬間――。
痛て!
だれかが、突然、ぼくの背中にぶつかってきた。
どこ見て歩いてんだよ――気色ばんで、後ろを振り返る。
見れば、パーカーを着た若い男性。しかも、右手にスマホ。どうやら、「ながら」のようだ。
ごめんなさい、とは謝らない。この男の口から、あの魔法のことばがこぼれ落ちてくることはなかった。それより彼は、ちょこんと首を垂れると、そそくさと、ここから去って行った。相変わらず、「ながら」で……。
あの魔法のことばを、ちょっぴり期待していただけに、残念でならなかった。
困ったもんだよ、まったく――力なく首を振りながら、ぼくは彼の背中を見送った。
さっきまで、天使がくれた魔法のことばで、ぼくの心は癒されていた。
けれど、いまの一件で、その魔法も、すっかり解けてしまった、ような気がした。
困ったもんだよ、まったく――またひとつ、ぼくは力なく首を振って、つまらなさそうな息をつく。
それから、ぼくは、改めて、冷えた缶ビールを手にする。
ま、これで、心を癒すとしますか。
缶ビールの魔法にすがるように、ぼくは、そっと、つぶやいた。
〈了〉