二 打診

文字数 3,558文字

 十一月二十五日、金曜。
 与田は内閣府を出て国会議事堂前から丸ノ内線に乗り、午後五時半すぎの新幹線で七時半すぎに長野に着いた。
 午後八時すぎ。
 与田は長野市権堂のクラブ・リンドウのバーカウンターにいた。カウンターの客は与田だけだ。ボックス席は七割ほど客で埋まっている。
「スコッチ、ストレート、ダブルで・・・」
 与田はそう注文して、フロアマネージャーの芳川にメモ用紙を依頼した。
「これをお使いください」
 芳川は、リンドウの透かしが入った便箋の綴りとボールペンをカウンターに置いた。
「ありがとう・・・」
 与田は便箋の綴りに文字跡を残さぬよう、便箋を綴りから一枚取ってカウンターに置いた。与田は、新たに就任した宮塚登主幹が父親の後藤総理から、『内山総理と党幹部が始末されたと聞いた』事と、後藤総理殺害の報復をしようとしている事、盗聴器の必要性と、電気スタンドの滑り止めに使っているゴム足に盗聴器をしかけられるか否かをメモして、『これを読んだら、メモを返してほしい』とつけ加えた。

 佐枝は与田が現れた時から、与田の目的を理解していた。与田がメモを書き終るのを待って、注文のスコッチウィスキーのグラスと水のグラス、お通しをカウンターの与田の前へ置いた。
「スコッチをどうぞ・・・」
「ありがとう・・・。これを・・・」
 与田はメモを書いた便箋を佐枝に渡した。佐枝は便箋を受けとらずカウンターに置いたままにした。ひととおり目を通すと新たなグラス二つをカウンターに置いて、それぞれにダフルのスコッチウィスキーを注いで、与田の前にグラスを滑らせた。
「店からのサービスです。ゆっくりしていってください」
「営業は何時まで?」
 与田は今月三日、前橋のクラブ・グレースで佐枝と芳川に会っている。ふたりに会うのはここ長野市権堂のクラブ・リンドウで二度目だ。
「十一時まで営業しています」
「わかった・・・」

 与田の調べによれば、月曜に着任した宮塚登主幹は、皇居ランの際に死亡した後藤総理と愛人宮塚登美子の間に生まれた子どもだ。態度が高圧的なのも頷ける。
 今日まで与田は、電話で話す宮塚主幹の唇を読んでいた。宮塚主幹が、後藤総理は暗殺されたと考えて、木村巧内閣情報官を『兄』と呼んで報復について話していた。木村内閣情報官も、後藤総理と他の愛人木村藍子とのあいだに産まれた腹違いの子どもだ。
 宮塚主幹と木村内閣情報官の会話を盗聴すれば、これまで成されてきた内調の裏の仕事を宮塚主幹がどこまで知っているかわかる。木村内閣情報官が宮塚主幹の考えをどこまで支持しているかもわかる。

 与田はスコッチを飲みながら考えた。宮塚主幹は誰に対して後藤総理の報復をするのだろう?後藤総理が前総理と党幹部の始末を指示していた証拠は、関係者とともに消えた。宮塚主幹も木村内閣情報官も、その事について知らないはずだ・・・。
 今回の始末に関係した下請けの始末屋も内調関係者も証拠も消えた。標的始末の実態を知るのはこの俺と佐枝と芳川だけだ・・・。発射装置は成田主幹の指示で俺が手配して成田主幹に渡した。内山総理の死因を心不全と報告した検察官と監察医は我が身の安全を思い今さら死因をくつがえさない。
 宮塚主幹は後藤総理から内山総理や党幹部の死について何か聞いたのか?後藤総理は始末方法を知らなかったはずだ。後藤総理が『前総理と党幹部は始末された』と息子の宮塚主幹に話したとしたら、後藤総理の死で、宮塚主幹は親の話が事実だったと判断して木村内閣情報官に知らせ、木村内閣情報官は宮塚主幹の主張を肯定したのかも知れない・・・。

 午後十一時前。
 ボックス席の客が帰った。フロアレディが片づけを終えて去った。店に居るのは佐枝と芳川と与田だけになった。クラブ・リンドウの経営者マダム亜紀は店に出ていなかった。
 三杯目のスコッチを飲み干した与田は、どのように話を切りだせばいいかわからなかった。すでに便箋に書いたメモを佐枝に見せている。佐枝の言葉を待つしかない。

 午後十一時をすぎた。
「お客様、閉店です・・・」
 佐枝は与田にクラブ・リンドウを出るよう促した。
「このメモをどう思う?」
 与田はカウンターの便箋を示した。
「お客様と私はどういう関係ですか?それによって、結論が変るのではないのか?」
 佐枝の口調が客に対するものではなくなった。
「どういうことだ?」
「なぜ、そのメモを私に見せた。その根拠はなんだ?」
「皇居ランの総理が死亡したのはなぜだ?俺はここでの会話を録音していない・・・」
「私に関係ないことだ」
「なんだって?」
 与田は言葉に詰った。たしかに佐枝が総理を始末した証拠はない。しかし、少なからず佐枝に、後藤総理抹殺の考えがあったはずだ・・・。

「私が報復される根拠はなんだ?」
 佐枝は与田が使ったウィスキーグラス四個を下げてカウンター下のシンクの棚に置き、そのグラスに似たグラス四個を洗いながら与田を見た。与田が使ったグラスには与田の唾液と指紋と佐枝の指紋がついている。与田がクラブ・リンドウに来た証拠だ。佐枝は、与田が少しは動じているかと思ったがそんな様子はない。これまで数々の始末を手がけてきたのだろう・・・。

「内山総理と党幹部二人が死亡した時、記者会見場にあんたたちがいた・・・」
 与田は、下請けの始末屋が佐枝たちに仕事を依頼していた事を述べながら、メモを書いた便箋を上着の内ポケットに入れた。
 佐枝がおちついて言う。
「その証拠となる記者会見場の映像記録も関係者も、全て始末したのだろう?」
「そうだ。残っているのは後藤総理が話しただろう、宮塚主幹の記憶だけだ」
 与田が苛つきはじめた。結論を急いでいる。

「では、ここからは仮定の話だ。
 宮塚主幹が親から、『内山総理と党幹部が始末されたと聞いた』とする根拠はなんだ?」
 佐枝は洗ったグラスを水切りカゴにのせてからグラスを晒布で拭いた。
「俺が、電話で木村内閣情報官と話す主幹の唇を読んだ。
 主幹は『親爺が、内山総理たちは始末されたと言った』と話してた」
「それなら、前主幹の指示で動いていたアンタがまっさきに疑われる。逃げても逃げ切れない。アンタが、真相を探ろうとしている者たちを始末するのが妥当だろう」
 佐枝は淡々とそう言った。

「ここからは、仕事の依頼だ。宮塚主幹と木村内閣情報官を始末してくれ。
 そのために盗聴器をしかけたい。盗聴器を作れる者を教えてくれ」と与田。

「仮定の話と言ったはずだ。始末するなら自分でやれ。私は盗聴器を作れる者を知らない。
 それに、私が、私を脅すような客に、黙って酒を出すと思うか?」
グラスを拭きながらそう話す佐枝に、与田は言葉を無くした。
「毒を仕込んだのか?」
「ああ、遅延性のをな・・・。私を脅す客が消えれば私への脅威は消える・・・」
「そうか・・・」
 確かにそうだ。俺を始末すれば、俺とこの二人の繋がりは消える。脅威も消える。だが、それは一次的だ。俺が今日ここに来た事は市中にある監視カメラの映像から明らかになり、二人の存在が宮塚主幹に知れる。俺を始末するより宮塚主幹の始末が先のはずだ・・・
「俺の始末が完了するのはいつだ?」
 与田は、毒を盛られた自分自身の生存期間を他人事のように言った。
「なんの話だ?」
 佐枝はグラスを拭き終えてじっと与田を見ている。与田は佐枝を見かえした。
「酒に毒を仕込んだのだろう・・・」
「仮定の話と言ったはずだ。
 オタクは一度始末された。今後、人を気軽に信じないことだ」
「わかった・・・」
 与田は内心ほっとした。

「ここからは仮定の話ではない。今日の飲み代はここに・・・」
 佐枝はスコッチの代金を記した明細書をカウンターに置いて与田の前へ滑らせた。
「ダブル一杯分でいいのか?」
「サービスだと言ったはずだ」
「ありがたいね。仕事の依頼を受けてくれるか?」
 与田が上着の内ポケットから財布を出した。お金をカウンターに置いている。
「その気はない」
 佐枝はお金を受けとり、領収書に金額とメモを書いて渡した。
 与田は領収書を見てメモを読んだ。そして誰にもわからない笑みを浮かべて、ポケットからライターを取りだし、領収書に火を点けて灰皿に入れた。
「今日はどうする?もう、帰りの列車はないぞ」
「駅前のホテル・ナガノを予約してある」
「そうか。気をつけて帰れ。宮塚主幹の尾行がついてる・・・」
 佐枝は気軽にそう言って、クラブ・リンドウのドアと窓を目配せした。どちらも、スモークがかかったステンドグラス風の造りで、ドアガラスとドア枠のあいだの一部と、窓枠とガラスのあいだの一部に、カウンター内の佐枝から外の風景が見える部分がある。その事は、カウンターの佐枝しか知らない。
「なんだって?」
 与田は言葉が無かった。
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