五 似非愛妻家

文字数 1,030文字

 翌年、二〇二一年、六月十五日、火曜、夜。
「お帰りですか?」
 長野市権堂のクラブ・リンドウで、経営者のマダム宮島亜紀が、カウンターの椅子から立ちあがる鷹野秀人に声をかけた。
「ああ、今日は女房との記念日なんだ。遅く帰ると、忘れたんだろうと怒られるからね」
 鷹野秀人は亜紀に笑顔を返した。
「お熱いですね」
 亜紀は鷹野秀人に微笑んだ。
「じゃあ、また・・・」
 鷹野秀人は支払いをすませて店を出ていった。梅雨の合間の曇の夜だ。鷹野秀人は徒歩で家路につくらしかった。
「鷹野さんて愛妻家ね・・・」
 亜紀は、カウンターを片づけるバーテンダー木村佐枝に目配せして客に同意を求めた。

 ほんとうにそうだろうか。今日が記念日なら、愛妻家はここには来ない。鷹野秀人は似非愛妻家だ。もうすぐ九時。この時刻にどんな顔で帰宅するのだろう・・・。そう思いながら、バーテンダー佐枝はグラスを洗って、水切りカゴにのせた。
 鷹野秀人の仏具店は善光寺表参道の門前町だ。ここ権堂と門前町の間に鷹野秀人の家があり、妻子が住んでいる。酒の匂いがすれば、家を通りすぎて飲み歩いていたのは妻にわかってしまう。平日の夕方から飲み歩くなど、店舗経営者ができるのだろうか・・・。
「奧さんは、いつだったか車で迎えにきた、あの人ですか?」
 佐枝は、何日か前に鷹野を迎えにきた、笑顔がかわいい小柄の若い女を思いだした。
「ええ、そうよ。あの時は雨だったけど、鷹野さんが飲み歩くときは、いつも奧さんが迎えに来るのよ・・・。旦那を愛してるより、監視よね・・・」
 客に気づかれぬよう、亜紀は後半の言葉を呟いていた。
「そうですか」
 鷹野秀人の妻はなぜ鷹野秀人を監視してるのか?理由を知るにはどうすればいい?マダムに訊くか?それともじかに鷹野秀人に訊くか?慌てなくていい。鷹野秀人は逃げはしない。へたに訊くといろいろ勘ぐられる。注意しなければならない。佐枝はそう思った。

「佐枝ちゃん。明日と明後日は何するの?もし予定が空いてれば私の買い物につきあってほしいの。どうかしら?」
 亜紀はグラスを拭く佐枝に呟いた。明日から二日間、この店クラブ・リンドウは休みだ。
「ええ、いいですよ」
 これで明日の予定が変った。鷹野秀人の事はマダムに訊こう。
「明日ね。軽井沢のアウトレットに行きたいのよ。娘たちが帰ってくるから、地元の観光もかねて出かけたいの。店がはねたら予定を話すわね」
 亜紀は笑顔で佐枝に話した。店の従業員として佐枝を慰労する気らしかった。
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