十六 消去

文字数 3,515文字

 佐枝は髪を乾かして下着を着け、カジュアルなトレッキングウェアに身を包んだ。冷蔵庫から冷えたコーヒーを取りだして飲むと、佐枝はキッチンテーブルで作業をはじめた。
 エタノールが入った注射器。クロロホルムを染みこませた不織布が入ったジップロック。大量の鉛の散弾が詰まった重い二つの丈夫なクツシタ。中型のサバイバルナイフ。それらを、物証消去の道具が入っているウエストバッグに入れた。
 紺色の作業衣と作業帽。胸のロゴマークと帽子のマークは、紺色のマジックインクで消してある。夜目には目極められない色彩だ。トレッキングウェアの上にそれらを着こみ、キッチン用の肌色のゴム手袋をして、大手のスーパーで大量に売られている安物のスニーカーを履いた。
 ウエストバッグを腰に着けて、自分で修理して使えるようにした、空き地に捨ててあった折りたたみ式の自転車を外へ出して、玄関ドアを施錠した。
 
 午前一時すぎ。曇天の夜空に星は見えない。
 佐枝は自転車で岩水沢一丁目に着いた。金田太市の住宅に明りが点いている。駐車場に車が三台停まっている。一台は芳川の車だ。
 佐枝は道路に近い草むらに自転車を倒して、徒歩で住宅に近づいた。

 住宅内は静かだ。住宅の照明が陰になっている箇所を移動して、さらに住宅に近づき、カーテンの隙間がある窓から内部を見た。
 応接間のソファーで二人の男が眠っている。その奥の台所に、横たわっている男が見えた。後ろ手に交差した両手首をガムテープで捲かれて両足首もガムテープで捲かれた芳川だった。芳川は口と目にガムテープが貼られて、話すことも見ることもできずにいた。
 身動きしない芳川に、死んでいるのかと思ったが、呼吸に合せて胸が動いているのを確認して、佐枝はほっと安堵した。

 この住宅は古い建売住宅で台所は住宅の裏手にあった。
 裏口へまわった佐枝はピッキングで解錠して、首に巻いたタオルで靴裏の汚れを拭い、台所に上がってドアを閉めた。
 佐枝はウエストバッグから大量の散弾が詰った二つの丈夫なクツシタを取りだしてクツシタの口元を手に巻きつけ、そのまま応接間へ行き、寝ている二人の後頭部を立て続けにクツシタで叩いて気絶させ、ウエストバッグからエタノールの注射器を取りだして、二人の後頭部に注射した。台所に入ってから二十秒ほどの行動だった。

「マネージャー。助けに来た。帰えるぞ」
 佐枝は芳川の手足のガムテープを切り取って、顔のガムテープを剝がした。
「なんでここが・・・」
 芳川は佐枝を見て驚いている。
「二人とも始末した。我々がここにいた痕跡を消す。手伝え。わかったか?」
 佐枝はウエストバックからゴム手袋を出して芳川に渡した。
「わかった。靴は玄関にある。こっちに持ってくる」
 芳川は状況を察したらしく、手にゴム手袋をしながらそう説明した。

「歩いた箇所を覚えてるか?」
「ああ、覚えてる。玄関と応接とトイレとソファーと台所だ」
「台所で漂白剤をボウルに入れろ。いつも店で漂白する程度に薄めてタオルを濡らし、歩いた所と触れた所全てを丁寧に拭け。それからこれで髪の毛や服の毛羽を残さず取り除け」
 佐枝はウエストバックから、小分けした漂白剤のペットボトルと、二つのタオル、粘着カーペットクリーナー、通称コロコロを取りだして芳川に渡した。
 芳川は台所のシンクにあるボウルに漂白剤を入れて水で薄め、タオルを浸して絞った。佐枝が指摘した箇所から粘着カーペットクリーナーで遺留物を取り除いて、そのあと、漂白剤のタオルで丁寧に拭いた。
 佐枝は芳川が話した箇所と佐枝自身が動いた箇所から、粘着カーペットクリーナーと漂白剤のタオルで遺留物を取り除いた。

「全部拭いたな?」
「コイツらを殺るつもりだったから、できるだけ物に触れないようにしてた。タバコも吸ってない。茶碗やコップも触れてない。トイレに行ったが、ノブは素手では触れてない。玄関のドアノブもだ」
 芳川は使ったタオルと粘着カーペットクリーナー、漂白剤のペットボトルを手に持った。
「手袋は外すな。使った物をこれに入れろ。台所のボウルは水を入れてすすげ」
 佐枝はゴミ用の黒い袋を差しだした。
 芳川は、粘着カーペットクリーナーとタオルと漂白剤のペットボトル、手足と口と目に張ってあったガムテープを袋に入れた。佐枝は使った粘着カーペットクリーナーと、芳川を拘束したガムテープの本体を見つけて袋に入れた。

「さきに行け」
 芳川が裏口から出た。佐枝は照明を消して、ふたりが歩いた箇所を漂白剤のタオルで拭きながら裏口を出てピッキングで施錠し、ノブをタオルで拭いた。
「道路際の草むらに折りたたみの自転車がある。積んでくれ。車のライトを点けるな。
 静かにゆけ」
 芳川にそう告げると、佐枝は芳川の車へ歩いて車に乗った。

 駐車場は砂利だ。雨が降らず砂利は乾いている。タイヤ痕は残らない。佐枝はほっと安堵した。
「外にタバコを捨ててないな?」
「捨ててない」
 芳川はエンジンを始動して、無灯火のまま発進した。駐車場を出て、自転車を後部シートに積み、通りへ出てライトを点けた。芳川は何も言わなかった。

 車中、佐枝は最後に使ったタオルをゴミ袋に入れて、着ていた作業服を脱いだ。下から、トレッキングウェアが現れた。ウエストバッグから薄手のザックを取りだして、ゴミ袋と着ていた物とウエストバッグを詰めて背負った。
「マンションの手前で降ろせ。自転車は防犯登録してないから処分してくれ。処分がすむまで、ゴム手をして自転車に触れ」
 芳川はゴム手袋をしたまま車を運転している。
「わかった」

 車が長野駅東口に近づいた。
「ここでいい。歩いて帰る。またな・・・」
 佐枝は車を止めさせて降りた。芳川は佐枝と目を合せて頷き、車を発進させた。
 佐枝は帽子を脱いでゴム手袋を外し、背負っているザックに入れた。
 これで、芳川の車に私の指紋は残っていない。髪の毛も車内に落ちていない・・・。

 マンションで佐枝は、ゴム手袋やタオルやガムテープ、作業衣と作業帽など、使った物を細かく切ってトイレへ流した。切れない粘着カーペットクリーナーの金属部やプラスティック、注射器、ピッキングの道具も特殊なワイヤーカッターで細かくして流した。
 あの二人を殴ったクツシタはテーブルの上にあった。クツシタの端を切り、鉛の散弾をステンレスの小鍋に入れた。換気扇をまわして、その鍋をガスレンジの火にかけた。
 鉛が溶けると、調理台の上に耐火用の珪藻土のプレートを置いて濡れタオルを敷き、その上に空き缶を置いて、溶けた鉛を流し込んだ。
 空き缶の下の濡れタオルが溶けた鉛の熱で加熱されて音を立てて湯気があがった。換気扇がその湯気を戸外へ吸いだしていった。
 鉛が冷えるあいだ、クツシタを切り刻んでトイレへ流した。
 それが終ると、手鍋に水を入れてその中に鉛の缶を入れて冷やし、缶を切って鉛を取りだして、今まであったペーパーウエイトのように、テーブルのメモの上に置いた。

 全て終ると、佐枝は着ている物を全て脱いでバスルームに入った。
 髪を洗い、全身を洗い、胸をさすり、下腹部をさすった。
 佐枝の口からあえぎが漏れて、涙が頬をつたった。
『佐枝・・・。贖わせた・・・取り戻した・・・』
 熱いシャワーが、佐枝の涙と全身の泡と、おぞましい記憶を洗い流していった。


 翌日、七月十八日、日曜。
「佐枝ちゃん、ちょっと・・・」
 クラブ・リンドウが開店する前に、亜紀が佐枝を店の奥に呼んだ。
「なんでしょう、マダム?」
 スツールに座り、佐枝は亜紀を見つめた。亜紀は笑顔だ。
「ありがとうね。吉川を助けてくれて」
「何の事でしょう?」
「芳川、昨日、寝こんでいたんだってね。見舞いに行ったんでしょう」
「ええ、気になって、夜、行ってみました。住所は聞いていましたから」
「風邪をこじらせてたのね。連絡してくればいいのに。
 いつまでも一人でいたらダメよね・・・」
 亜紀は芳川と佐枝をいっしょにさせたいらしかった。
「そうですね」
 そう答えて佐枝は持ち場に戻った。
 芳川は佐枝と目が合うと何も言わずに目だけで黙礼し、フロアマネージャーの仕事に徹していた。佐枝はそのほうが煩わしい説明をする必要がなくて都合が良かった。

 七月二十日、火曜、午前。
 テレビニュースが、七月十八日、日曜未明、長野市内で会社員二人が死亡したと報じた。
 死亡したのは会社員の金田太市と香野肇、二十六歳である。月曜に出社しない二人を心配した上司が金田太市の自宅を訪ねて、死亡している二人を発見したと説明した。
 司法解剖の結果、長野県警は二人の死因を急性アルコール中毒による心不全と判断した。
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