十三 監視

文字数 1,490文字

 亜紀の方針で、馴染み客を追悼する場合を除き、ウェイターやバーテンダーは店で一滴も酒を飲まない。主役は客であり、添え花のフロアレディーは客に合せて、おつきあいに酒を飲むだけだ。従業員は裏方に徹している。客もその事をわきまえて、ウェイターやバーテンダーに酒を勧めない。クラブ・リンドウに馴染み客が多いのは、こうした亜紀の方針と、バックに鷹野良平がついていた亜紀の手腕だろう。
 店で酒を飲まずにすむので、ウェイターやフロアマネージャーの芳川は車で通勤している。クラブ・リンドウが契約している駐車場は、店がある権堂の通りから南へ入った長野電鉄権堂駅の近くにある。店から歩いて五分もかからない。

 翌日、七月九日、金曜、午後四時半。
 佐枝はマンションを出て、予約していたタクシーに乗った。
 十分ほどで長野大通りの長野電鉄権堂駅近くでタクシーを降りて、梅雨空の下を権堂のアーケード街へ歩きながら、クラブ・リンドウが契約している駐車場を眺めた。
 権堂駅に近いこの月極駐車場は周囲の照明で夜も明るい。そのためか、駐車場に管理人はいない。監視カメラもない。
 佐枝は駐車場に芳川の車を見つけて駐車場へ歩いた。駐車場で芳川の車の周囲を点検するように見まわり、車後部の車体裏に手を伸ばして発信器を装着し、後輪の空気圧を確かめて駐車場を出た。
 佐枝の行動を見ている者は誰もいなかった。たとえ誰か見ても、車の持主がタイヤの空気圧を確認しているように見えただろう。

 その日。
 クラブ・リンドウで芳川は佐枝に何も言わなかった。いつものように客を笑顔で接待し、フロアレディーに的確な指示を与えてオーダーをウェイターに伝えていた。
「お疲れさまでした」
 店がはねると芳川は、片づけを終えた佐枝とフロアレディーとウェイターに、慣習化された挨拶を交してフロアレディーとウェイターを送り出し、店を出ていった。
佐枝は、芳川があえて佐枝を避けているのを感じた。芳川の態度は、芳川のする事に佐枝を巻きこみたくないとの気持ちが表れているように思えた。
「お疲れさまでした」
 佐枝は亜紀に挨拶して店を出た。

 帰宅した佐枝は、スマホの位置情報アプリを起動して、スマホをダイニングキッチンのテーブルに置いた。現れた輝点は北長野駅の北の一郭に停止したまま動いていなかった。思わず佐枝の口からため息が漏れた。なんだかいつもより食欲が無い・・・。
 スマホをテーブルに置いたまま、冷蔵庫から、用意しておいたサンドイッチと惣菜を取りだして軽い夜食を食べた。
 その夜、位置情報アプリの輝点は停止したままだった。

 翌日、七月十日、土曜。
 いつもと同じに午前九時に目覚めた。佐枝は朝食を食べて洗濯や片づけをしながら、スマホの位置情報を何度も確認した。輝点は停止したままだ。

 午後四時。
 位置情報の輝点が動いた。輝点は北長野から北西へ十五分ほど走り、南長野西醐町のTOUNO機械(株)に移動した。TOUNO機械(株)はクラブ・リンドウの西五百メートルほどにあり、善光寺へ至る中央通りが、TOUNO機械(株)とクラブ・リンドウを隔てている。

 佐枝は出勤の仕度をしながらスマホを見た。
 午後四時半になった。輝点は動かなかった。クラブ・リンドウの勤務開始は午後五時だ。
 佐枝はマンションを出て予約していたタクシーに乗り、ふたたびスマホの位置情報を確認した。
 午後四時四十分。輝点がTOUNO機械(株)から移動して長野電鉄権堂駅近くの駐車場へ停止した。芳川がいつも出勤する時間だった。
 これでいつもの勤務が始る・・・。佐枝はなんだかほっとしている自分に気づいた。
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