十 口止め

文字数 2,462文字

 その夜(七月七日水曜)。
 善光寺北東にある岩水沢二丁目の公園で、白髪の初老の男が、庭園灯の明りが届かない植え込みの間で用をすませ、ふりむいた拍子に若い男がぶつかった。
 白髪の男はだいぶ酔っていたらしく、言葉を発することなく、謝罪する男の胸元をつかんで力任せに天へ突きあげるように男を持ちあげた。その瞬間、白髪の男が若い男の胸元を離して、空気の抜けた風船のように、ヘナヘナと、その場に座りこんだ。若い男は何事もなかったように公園の暗闇に消えた。

 翌日、七月八日、木曜、早朝。
 公園をジョギングする若者が、倒れている白髪の男を見つけて警察に知らせた。
「今度は、義父ですか・・・」
 公園の隅で倒れている白髪の男を見て、刑事が呟いた。
 死亡しているのは鷹野仏具店の経営者で鷹野秀人の義父の鷹野良平、六十七歳だった。
 司法解剖の結果、体内から検出されたのは大量のアルコールだけで、薬物は検出されなかった。外傷もなかったため、鷹野良平の死は大量のアルコール摂取による心不全として片づけられた。報道は、息子の死を悼んでの深酒が原因と判断し、鷹野良平が飲み歩いていた飲食店店主のコメントを報じた。

 その日(七月八日木曜)の夕刻。
「今日、客が来ないなら、早めにしまうわよ・・・」
 店に出勤した佐枝に、亜紀が沈んだ顔で言った。
 佐枝は報道で鷹野良平の死を聞いている。先日の白髪の男は鷹野秀人の義父の鷹野良平に違いない。亜紀と鷹野良平は何か関係があったのではないだろうか・・・。
「マダムは特別な客が亡くなると追悼するんだ。
 今回は、これまでの他の客とは違う・・・」
 フロアマネージャーの芳川は、馴染み客が亡くなった時の亜紀と、鷹野良平の死を知った時からの亜紀を比較しているらしかった。

 午後十時前、店は閉店した。
 亜紀は、芳川に酒肴を用意させて、従業員が飲みたいという酒を各自のグラスに注がせ、鷹野良平を追悼する言葉を述べて、従業員に酒を飲ませた。
 亜紀は、鷹野良平に対する亜紀個人の哀悼を一言も口にしなかった。
 追悼の宴は三十分ほどでお開きになった。

 従業員が帰った。
 亜紀は芳川と佐枝をボックス席に呼んだ。
「勘のいいふたりだから、私と良平さんの事が気になるでしょうね。他言無用で話すけど、いいわね」
 亜紀は佐枝と芳川の目を交互に見つめた。余計な詮索をしないよう目配せしている。
「わかりました」
「はい・・・」
 佐枝は、芳川が用意した水のグラスを取って、少しだけ水を口に含んで湿らせた。亜紀に呼びとめられた時から、妙に口の中が乾いて話しにくくなっていた。
「芳川には、芳川と鷹野良平さんの関係を佐枝ちゃんに話すよう伝えといたから、佐枝ちゃんは芳川から話を聞いてるわね」
 亜紀は芳川と佐枝を交互に見ている。
「ええ、聞きました」
 佐枝はそれだけ答えて亜紀を見つめ、説明を待った。
「鷹野秀人の事は、それとなく佐枝ちゃんに話しておいたわ・・・」
 芳川を見る亜紀の口ぶりから、鷹野秀人と鷹野良平についてどこまで説明するか、亜紀と芳川の間で取り決めがあったと佐枝は感じた。なぜ、亜紀は鷹野良平の事を話す気になったのだろう・・・。佐枝は亜紀と鷹野良平の関係を知ろうと思わなかった。何も知らなければ詮索せずにすむ。もしかして、亜紀は、鷹野良平に恩がある芳川が、鷹野良平に何があったか単独で調べるのを止めようとしているのではなかろうか・・・。

「昔ね。良平さんはこの界隈で知らない者がいないほどの暴れ者で、しょっちゅう警察沙汰になってたの・・・」
 亜紀は静かに語りはじめた。

 二十代の当時、鷹野良平は亜紀といっしょになる気でいた。しかし、鷹野良平には親が決めた許嫁がいて、鷹野良平は鷹野仏具店の親とも、許嫁とも仲が良くなかった。そのため気持ちは荒れ果て、肩が触れたとか睨んだとか、ちょっとしたことで街の者やヤクザと喧嘩の日々だった。
 そんな鷹野良平だったが、亜紀に子どもができて喧嘩をしなくなった。喧嘩をふっかけられても殴られっぱなしだった。そして毎日クラブ・リンドウに来て、亜紀に怪我の手当をさせて亜紀の傍にいた。
 鷹野良平が亜紀の元に来るようになって、鷹野仏具店も、鷹野良平自身もおちついた。鷹野良平の親は亜紀の存在を暗黙に了解していた。
 ところが、世間体があるからと言い張り、親は許嫁を家に入れた。そして亜紀の娘たちの妹が生まれた。
 その後、鷹野良平は親の頼みを聞き、年頃になった娘に遠縁から婿養子を迎えたが、それがまちがいだったと気づいて悩んだ。


「あなたも鷹野秀人の性格を知ってるわね」
 亜紀は芳川を見つめた。
「はい。秀人は、俺に目をかけてくれた良平さんとは大違いで、冷酷でした。
 若い時から喧嘩は絶えなかったし、良平さんのような男気なんか一つもなくて、喧嘩自体を楽しんでました。良平さんはその事を心配して、ここで喧嘩したら、お前の空手で思いきりぶちのめしてくれと言ってました」
「そうね。芳川は四段だものね。芳川を良平さんから紹介してもらった時、うちで働いてもらえると聞いて、私はすごく安心したわ・・・。
 それである日、良平さんがこう言ったの。俺と秀人は、殺るか殺られるかだと・・・」
「その話、俺も聞きました。俺は、良平さんが秀人に手を下したと思ってました。
 だけど、違ってました。良平さんは、秀人が深酒した訳を探ってくれと言ってました。
 秀人が死ぬ理由を知ってたみたいだった・・・」
 芳川は鷹野良平を思って声を詰まらせながらそう話した。

「芳川。二人の死因を探るのはやめなさい。良平さんからも言われたわ。関連する人たちが立て続けに亡くなって死因がわからなければ、プロの仕業だって・・・。
 だから、誰が殺ったか探れば、殺られるって・・・。
 あなた、良平さんの死因を調べて、死ぬ気は無いでしょう?」
 亜紀は穏やかなまなざしで芳川を見つめている。
「はい、ありません・・・」
 芳川はフロアに視線を落した。
「では、この話はこれまでにしましょう」
 亜紀は話を終えた。
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