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文字数 1,176文字



 お兄ちゃんだけ、いればいいと思った。
 だから私は、あのとき、母の手をとることをためらった。届かなった手は空を掴んだ。落ちていく母は私を通り越して、兄を見ていた。目の前が真っ暗になる。兄が後ろから私の目を塞いだからだ。母はどんな顔をして落ちていったのだろう。宙を映す黒い目の印象が強すぎて、それ以外を思い出せない。最近、夢に出てくる、仄暗い目。あれは、母なんだろうか。夢の内容は目を覚ますときれいに忘れてしまっている。覚えているのは、いつだって、だれかがじいと私を見ていた、ただそれだけ。


 
 目を覚ますと、ぐうとお腹が鳴った。大きな窓の外には夕焼けが広がっている。夕焼けの次の日は晴れるという。
 明日は洗濯物を干してから会社に行こうかな。
 梅雨の合間の晴れはとても貴重だ。
 日捺子はソファから体を起こし腕を大きく広げ伸びをした。体にかけていたブランケットが床に落ちる。人ひとりが足を伸ばして寝てもまだ余裕のある大きなソファ。日捺子は最近、ここで寝ている。昼寝のときだけでなく、夜眠るときも。寝室のキングサイズのベッドは一人で眠るには大きすぎて落ち着かない。無駄に大きなテレビも、使い勝手のいいアイランドキッチンも、おしゃれで広いこの部屋自体、もう何年も住んでいるのにいまだに落ち着かない。

 ずっと、なんか居心地の悪さが消えない。
 そう、


 具体的ではない、もやもやとした形のないもの。
 そういうのが一番厄介なことを、日捺子はよく知っている。

 ラグの上に広がったブランケットを畳んで、ソファの上に置いた。もう日が沈みかけている。こんな時間から晩御飯を作る気持ちにはならなくて、日捺子は外に出ることを決めた。小さなトートバッグを持って、玄関の姿見で軽く髪に手櫛を通した。メイクも着替えも済んでいた。日捺子は休みの日でも朝から身なりを整えている。突然彼が帰ってきてもだいじょうぶなように。別に彼は、日捺子がどんな格好でいようと気にしない。そうだとしても、ちゃんとしておくことは、日捺子にとってとても大事なことだった。

 なにか適当に食べてこよう。買ってきてもいい。出前を頼む……のは今の気分とは違った。少し、歩きたかった。日捺子は、外に出た。何を食べようか。考えなしに歩く。大通りの信号が点滅している。赤になりそうだ。会社に行くときなら走るけど、今日は休日だし急ぐ必要もない。日捺子はゆっくりと歩いて、交差点で立ち止まり青になるのを待った。スピードを出した車がひっきりなしに通過していく。たまに思うときがある。ここに、一歩足を踏み出したら私はどうなるんだろう。まぁ、そんなことはしないけれど。隣に誰かが立った。長い、影。距離が近い。

「少し後ろに下がった方が、いいですよ」

 言われ、1歩半ほど、下がった。聞き覚えのある声だった。日捺子は隣の誰かを見上げた。
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