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文字数 1,287文字

 それでも日捺子は会社に向かった。半ば意地だった。行くって決めたのはわたしなんだから、自分との約束くらい守らなきゃ。這う這うの体で会社に着いて、おはようございますと挨拶をする。隣の席の先輩が日捺子の顔を見るなり大丈夫?と尋ねた。やさしくて、きれいな先輩。わたしとは違うちゃんとした大人の女性。だいじょうぶです。そう言うわたしは、子供じみた意地で会社に来てる。わたしだって大人なのに、いつまでたっても大人にはなりきれない。



 日捺子はしばらくしたら体調は良くなるだろうと高を括っていた。けれど、午前が終わっても一向に良くなる気配はなくて、むしろどんどん悪くなっていった。

「里中さん、すごい顔色。今日はもう帰ろう?上には私から伝えておくから、ね?」

 お昼休憩に入る前に先輩から言われて日捺子は帰ることにした。日捺子でも分かった。この状態で会社に居られる方が迷惑だということを。ありがとうございます。頭を下げて、日捺子は会社を後にした。

 会社を出て、地下鉄に向かった。すぐに来た電車の一番端の席に座る。座るとだるさとか、熱っぽさとか、節々の痛みとか、そういうものがずんと体にのしかかってきた。あまりの体の重さに日捺子は横の銀色のバーに寄りかかった。狭い閉ざされた空間のよどんだ空気が、生暖かい人の息が、すごく気持ち悪い。日捺子は手の甲で首筋を触ってみる。思っていたより熱さはなかった。最寄り駅のアナウンスが聞こえてふらふらと電車から降りた。あとすこしでおうち。地上に出て家までの道を歩いていく。たかが10分程度の距離。なのに、歩いても歩いても全然、辿り着く気がしない。

 今日は涼也くん、何時に帰ってくるんだろう。

 日捺子は道の端に寄ってよろよろと手をついた。知らないマンションの入り口、花壇の段差にもたれかかる。外にいるのになぜか空気が薄く感じられて、日捺子はひゅっ、ひゅっ、と浅い呼吸を繰り返した。うまく息ができない。気持ちが悪い。吸えばいい?吐けばいい?呼吸ってどうやってするんだっけ。ぼうっとする。寒気がするのに、手汗がすごい。体が震える。

「だいじょうぶ?」

 だれかの声が聞こえた。日捺子は目をぐるりと動かす。ふわりとなびいた金色の髪。ぼやけた視界のなかで、気弱そうな黒い瞳が揺れている。

 ああ、これだ。これをわたしは待っていたの。

 日捺子は、意識を失う手前、男の腕を力いっぱい握った。











 鮭。梅。昆布。ツナマヨ。
 目の前のコンビニの棚には無数のおにぎりが置かれている。いったいいつからこんなに種類が増えたんだろう。定番からドラマコラボの長ったらしい名前のものまで種々多様だ。日捺子は選ぶことが苦手だった。だからこそ慎重であろうと思っている。むかしみたいな失敗はもう、したくない。たかがおにぎりひとつであったとしても、蝶の羽ばたきのようになにかを変えてしまうのかもしれないのだから。

 社長と打ち合わせを終えて席に戻ったとき、早坂晟のまあるくなった背中を見て困りごとが起きていることに気付いた。帰りが遅くなるんだろうことも。そして、誰にも助けを頼むことができすにいることも。
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