18.

文字数 2,431文字

「あ、わたし。日捺子、です」
 虎汰くん居たんだ。日捺子はほっとした。けれど、なにかがひっかかった。なにかが、いつもと違う。
「ちょっと待ってて。すぐ開けるから」
「はい」
 あっ、そうか。日捺子は気付いた。
 虎汰くんはいつもはインターホン越しに会話をしない。モニターで確認だけして、日捺子ちゃん、いらっしゃいってすぐに開けてくれるんだ。
「はい、どうぞ」
 扉の先にいたのは虎汰ではなかった。
「……あ、あの、ごめんなさい。すみません」
 日捺子は思わず謝った。部屋を間違えたと思ったからだ。後ろに下がって部屋番号を確認する。合ってる。ここは虎汰くんのおうち。
「間違ってないよ。ここ、とらちゃんちだから」
 その男が日捺子に言う。
「とら、ちゃん?」
「結城 虎汰。会いにきたんでしょ? そんなとこ居ないで中入りなよ」
 手首を掴まれて部屋に引き入れられる。日捺子の背後で扉がしまって、男が鍵がかけた。男の人、すごく近い。ぷん、と香水と煙草の混じった匂いがした。あ、知ってる、わたし。これ。この匂い。
「あの、手」
「あ、ごめんごめん」 
 その男が日捺子から手を離した。かち、と乾いた音がして玄関が明るくなる。その顔が、はっきりと見えた。男が日捺子を掴んでいたのとは反対側の手に持っていた電子タバコをひと吸いする。焦げくさい。香りが記憶を呼び覚ますって、ほんとだ―――煙草。缶コーヒー。ひらひら舞う桜。朝の街で交わしたさようなら。
 男は白い煙を宙に向かって吐いて
「久しぶりだね、日捺子ちゃん」
 と、にやりと笑って、言った。


 人当たりがいいとは言い難い、うさんくさい笑顔で迎え入れたその男は、部屋に上がることをためらう日捺子の背を押して、いつもの———虎汰と一緒にいるときの特等席の———ビーズクッションになかば強引に日捺子を座らせた。
「あ、あの」
「ちょっとここで待っててね」
 日捺子の肩に置かれたその人の手がぐっと押される。動くな、と。そこにいてね。言葉でもしっかりと念を押して、男は玄関すぐのキッチンへと戻っていく。
「ねー、なにが飲みたい?って……相変わらず甘い物しかねーな。この家」
「あの、わたし」
「いいから。いいから。適当に用意するからちょーっと待っててくれるかな?」
 半疑問形。優しい、話し方。なのに、それは強制だった。日捺子に帰るという選択肢は与えられていないことを察して、立ち上がろうと浮かせた腰を戻した。
「あ、はい」
 クッションが体のかたちに沈んでいく。日捺子はキッチンでだるそうに動く男を見た。
 ぼさっとしたセットされてない明るい茶髪。大きめの黒縁のメガネ。フープピアスが二つ左耳で光っている。ハイブランドのロゴTに黒のストレートパンツ。
 一見どこにでもいそうな普通の男の人なのに、休日の会社員にはどうしたって見えないのは、どこか世ずれした男の雰囲気のせいなのだろうか。軽佻浮薄(けいちょうふはく)。涼也が嫌いそうな単語が、日捺子の頭に浮かぶ。
「待たせちゃってごめんね」
 男がカップを持って戻ってきた。ここにはふたりいるのに、男の手にはマグカップがひとつしかない。テーブルの上に飲みかけのものが置かれてもいなかった。
「はい、どーぞ」
 テーブルの中心に勢いよく置かれたマグカップ。白地に淡いいろんな色の水玉の。いつも虎汰くんが使ってるやつだ。
「ありがとう、ございます」
 なみなみと注がれたオレンジジュースが揺れている。
「どういたしまして」
 オレンジ色の水面が、ゆらゆらゆらゆら、落ち着かない。日捺子は両手で包み込むようにマグカップを持った。
「俺のこと、覚えてる?」
 マグカップから顔を上げて、男の顔を見る。もちろん、覚えてる。あのときとは服装も雰囲気も違うけど。
「あ、うん……はい。ナルくん、だよね?」
「そ、ナルくんです。久しぶりだね」
 ナルが電子タバコから焦げた吸殻を抜いて新しいのを差し込む。ぽいと投げた吸殻はごみ箱の中に落ちた。
「元気だった?」
「はい……元気でした」
「そっか。それはよかった」
 返事がとてもそっけない。ナルが煙草を吸う。口と鼻から漏れる白い、匂いのない煙。なのに、とてもにがくて、息苦しい。日捺子はオレンジジュースを口に含む。甘いはずのジュースまでにがく感じて、一口だけですぐカップをテーブルに戻した。
「……あの、いいですか?」
「なに?」
「ナルくんはなんでここにいるの……でしょうか?」
 日捺子は緊張していた。あの夜はあんなに打ち解けた気がしたのに、今のナルにはすごく距離を感じた。距離というか、なんか、レイヤーが違うみたいな。同じ場所にいるのにずれている、そんな感じ。
 ナルがポケットからキーケースを取り出し、中を開く。そこには3本の鍵があった。ナルはその中の一本をつまんで日捺子に見せた。
「これ、ここの鍵ね。意味分かる?」
「意味?」
 日捺子は困惑した。よく分からない。ナルが言おうとしていることが。
「とらちゃんと僕は、鍵を交換するくらいの仲ってこと」
 だからなんだというのだろう。日捺子には鍵を誰かと交換するという経験も、交換したいと思うような仲になった人もいなかった。一緒の部屋の鍵を持っているのは、涼也くんだ。涼也くんは、わたしの……。
「僕、とらちゃんと付き合ってんの」
 深くに落ちそうになった思考が途切れる。ナルの言葉に日捺子は素直にへぇ、と思った。驚きとか、偏見とか、そういうのはなんにもなく、ただそうなんだ、と。
「驚かないの?」
「……うん」
 ナルがはぁーと大げさなため息をつく。
「日捺子ちゃん、つまんないね。うそ。うそだよ、うそ。お友達です。ただの腐れ縁」
 むしろそっちの方が意外な組み合わせで、日捺子はすこし目を丸くした。
「驚くの、そこ?」
「なんか、うん。見た目っていうか、雰囲気っていうか、なんか違うなって。ふたり」
「日捺子ちゃんは見えている部分だけで友達になるの?」
「……わたし、友達いないから」
「ああ。いなさそうだよね」
 あっけらかんとナルが言った。
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