15.
文字数 2,122文字
目を覚ますと、ぐうとお腹が鳴った。大きな窓の外には夕焼けが広がっている。夕焼けの次の日は晴れ。明日は洗濯物を干してから会社に行こうかな。梅雨の合間の晴れはとても貴重だ。日捺子はソファから体を起こし腕を大きく広げ伸びをした。体にかけていたブランケットが床に落ちる。人ひとりが足を伸ばして寝てもまだ余裕のある大きなソファ。日捺子は最近、ここで寝ている。昼寝のときだけでなく、夜眠るときも。寝室のキングサイズのベッドは一人で眠るには大きすぎて落ち着かない。無駄に大きなテレビも、使い勝手のいいアイランドキッチンも、おしゃれで広いこの部屋自体、もう何年も住んでいるのにいまだに落ち着かない。
ずっと、なんか居心地の悪さが消えない。
そう、
具体的ではない、もやもやとした形のないもの。
そういうのが一番厄介なことを、日捺子はよく知っている。
ラグの上に広がったブランケットを畳んで、ソファの上に置いた。もう日が沈みかけている。こんな時間から晩御飯を作る気持ちはならなくて、日捺子は外に出ることを決めた。小さなトートバッグを持って、玄関の姿見で軽く髪に手櫛を通した。メイクも着替えも済んでいた。日捺子は休みの日でも朝から身なりを整えている。突然彼が帰ってきてもだいじょうぶなように。別に彼は、日捺子がどんな格好でいようと気にしない。そうだとしても、ちゃんとしておくことは、日捺子にとってとても大事なことだった。
なにか適当に食べてこよう。買ってきてもいい。出前を頼む……のは今の気分とは違った。少し、歩きたかった。日捺子は、外に出た。何を食べようか。考えなしに歩く。大通りの信号が点滅している。赤になりそうだ。会社に行くときなら走るけど、今日は休日だし急ぐ必要もない。日捺子はゆっくりと歩いて、交差点で立ち止まり青になるのを待った。スピードを出した車がひっきりなしに通過していく。たまに思うときがある。ここに、一歩足を踏み出したら私はどうなるんだろう。まぁ、そんなことはしないけれど。隣に誰かが立った。長い、影。距離が近い。
「少し後ろに下がった方が、いいですよ」
言われ、1歩半ほど、下がった。聞き覚えのある声だった。日捺子は隣の誰かを見上げた。
「こんばんは」
私服の早坂晟が、そこに居た。なんでここに早坂晟が居るんだろう。日捺子の住んでいる街は休みの日に出かけるような繁華街からは離れていた。
「……こんばんは」
でも日捺子は挨拶だけを返して、なんでここにいるのとは聞かなかった。
「あまり前に出たら危ないですよ」
「ああ、うん。ありがとう」
日捺子は早坂晟から、信号へと視線を戻す。会話は、終わり。それを態度で示したつもりだった。早坂晟からさりげなく距離をとる。車道の信号が黄色になって、矢印が青く光った。
「里中さん、今急いでますか?」
身長差と車の音が邪魔をして早坂晟の声が聞こえづらい。
「え?」
だからそういうことにしようと思った。聞こえてないふり。分からないふり。青信号になったら、じゃあ、またとでも言って、去ってしまえばいい。
早坂晟が少し、日捺子に寄る。身を屈ませて、さっきよりもゆっくりはっきりと言う。
「だから、忙しいですか?」
「忙しい……ように見えますか?」
言い切れず、余計な疑問を挟んでしまった。
「見えないですね」
ははっと、軽く早坂晟が笑う。
「飯、一緒にどうですか?」
青になる。日捺子が歩き出すと当然のように横に早坂晟が並んだ。捕まってしまった、と感じた。
「相談したいことがあるんです」
相談なんて冗談じゃない。休みの日に早坂晟のために時間を遣うのは、なんか違う。そこまで親しいわけじゃない。そういうのは会社で休み時間にでも、と口を開きかけたとき
「彼氏に悪いとか、そういうこと考えてます?」
早坂晟が言った。からかうような口調が癇に障った。
「いいえ。そんなことは考えてないです」
今、心のうちに彼の存在は、なかった。
「じゃあ、一緒に飯。いいですね?」
なにが、じゃあなんだろう。じゃあまた明日、を言いたかったのは私のほうだったのに。日捺子は心の中でため息をつく。
日捺子と早坂晟はすぐ近くにあったファミレスに入った。場所を選んだのは日捺子だった。たまたま会った早坂晟と食事をするためにお店を選ぶのが面倒くさかったから、そこに決めた。それに日捺子はファミレスが好きだった。親子連れ、ひとりで勉強してる人、制服姿の学生、スーツ姿の会社員、男女の組み合わせ、友人の団体―――様々な種類の人が各々に好きな時間を過ごしている。日捺子から見てちょうどいい塩梅の幸せ。それを感じられるのが、よかった。
日捺子は席に着いて早々に正面に座る早坂晟にメニューを渡した。
「ありがとうございます」
渡されたメニューを開きつつ早坂晟がちらちらと日捺子を見る。その視線が気になって尋ねた。
「どうしました?」
「いえ、里中さんってファミレス似合わないなって」
「ファミレスに似合うも似合わないもないでしょう」
「ありますよ。里中さんは小さいオードブルとかがいっぱい出てくる店で白ワイン飲んでるイメージです」
どういうイメージなんだろ。日捺子は首を傾げる。
ずっと、なんか居心地の悪さが消えない。
そう、
なんか
。具体的ではない、もやもやとした形のないもの。
そういうのが一番厄介なことを、日捺子はよく知っている。
ラグの上に広がったブランケットを畳んで、ソファの上に置いた。もう日が沈みかけている。こんな時間から晩御飯を作る気持ちはならなくて、日捺子は外に出ることを決めた。小さなトートバッグを持って、玄関の姿見で軽く髪に手櫛を通した。メイクも着替えも済んでいた。日捺子は休みの日でも朝から身なりを整えている。突然彼が帰ってきてもだいじょうぶなように。別に彼は、日捺子がどんな格好でいようと気にしない。そうだとしても、ちゃんとしておくことは、日捺子にとってとても大事なことだった。
なにか適当に食べてこよう。買ってきてもいい。出前を頼む……のは今の気分とは違った。少し、歩きたかった。日捺子は、外に出た。何を食べようか。考えなしに歩く。大通りの信号が点滅している。赤になりそうだ。会社に行くときなら走るけど、今日は休日だし急ぐ必要もない。日捺子はゆっくりと歩いて、交差点で立ち止まり青になるのを待った。スピードを出した車がひっきりなしに通過していく。たまに思うときがある。ここに、一歩足を踏み出したら私はどうなるんだろう。まぁ、そんなことはしないけれど。隣に誰かが立った。長い、影。距離が近い。
「少し後ろに下がった方が、いいですよ」
言われ、1歩半ほど、下がった。聞き覚えのある声だった。日捺子は隣の誰かを見上げた。
「こんばんは」
私服の早坂晟が、そこに居た。なんでここに早坂晟が居るんだろう。日捺子の住んでいる街は休みの日に出かけるような繁華街からは離れていた。
「……こんばんは」
でも日捺子は挨拶だけを返して、なんでここにいるのとは聞かなかった。
「あまり前に出たら危ないですよ」
「ああ、うん。ありがとう」
日捺子は早坂晟から、信号へと視線を戻す。会話は、終わり。それを態度で示したつもりだった。早坂晟からさりげなく距離をとる。車道の信号が黄色になって、矢印が青く光った。
「里中さん、今急いでますか?」
身長差と車の音が邪魔をして早坂晟の声が聞こえづらい。
「え?」
だからそういうことにしようと思った。聞こえてないふり。分からないふり。青信号になったら、じゃあ、またとでも言って、去ってしまえばいい。
早坂晟が少し、日捺子に寄る。身を屈ませて、さっきよりもゆっくりはっきりと言う。
「だから、忙しいですか?」
「忙しい……ように見えますか?」
言い切れず、余計な疑問を挟んでしまった。
「見えないですね」
ははっと、軽く早坂晟が笑う。
「飯、一緒にどうですか?」
青になる。日捺子が歩き出すと当然のように横に早坂晟が並んだ。捕まってしまった、と感じた。
「相談したいことがあるんです」
相談なんて冗談じゃない。休みの日に早坂晟のために時間を遣うのは、なんか違う。そこまで親しいわけじゃない。そういうのは会社で休み時間にでも、と口を開きかけたとき
「彼氏に悪いとか、そういうこと考えてます?」
早坂晟が言った。からかうような口調が癇に障った。
「いいえ。そんなことは考えてないです」
今、心のうちに彼の存在は、なかった。
「じゃあ、一緒に飯。いいですね?」
なにが、じゃあなんだろう。じゃあまた明日、を言いたかったのは私のほうだったのに。日捺子は心の中でため息をつく。
日捺子と早坂晟はすぐ近くにあったファミレスに入った。場所を選んだのは日捺子だった。たまたま会った早坂晟と食事をするためにお店を選ぶのが面倒くさかったから、そこに決めた。それに日捺子はファミレスが好きだった。親子連れ、ひとりで勉強してる人、制服姿の学生、スーツ姿の会社員、男女の組み合わせ、友人の団体―――様々な種類の人が各々に好きな時間を過ごしている。日捺子から見てちょうどいい塩梅の幸せ。それを感じられるのが、よかった。
日捺子は席に着いて早々に正面に座る早坂晟にメニューを渡した。
「ありがとうございます」
渡されたメニューを開きつつ早坂晟がちらちらと日捺子を見る。その視線が気になって尋ねた。
「どうしました?」
「いえ、里中さんってファミレス似合わないなって」
「ファミレスに似合うも似合わないもないでしょう」
「ありますよ。里中さんは小さいオードブルとかがいっぱい出てくる店で白ワイン飲んでるイメージです」
どういうイメージなんだろ。日捺子は首を傾げる。