2.

文字数 2,266文字

 日捺子は立ち上がって、一口だけ食べた肉をごみ箱に捨てた。銀色の大きめのトラッシュ缶の中にきれいに焼けた柔らかいステーキ肉が滑り落ちていく。「はい」と差し出された涼也の分も。ごみ箱の中でまだ湯気をたてる肉は、もう、ただの生ゴミでしかない。
「明日、可燃物の日でよかったね」
 涼也が、ほほえんだまま、立ち上がる。その手が振り上げられるのを、日捺子は瞬きすることなく、見ていた。



 スーパーに行ってくると涼也くんに告げて日捺子は家を出た。外に出て大きく息を吐く。ゆっくりと、吸う。それかろ日捺子は浅くため息をついた。
 今日も間違えちゃった。
 わたしはいつも、そう。ずっと、そう。
 子どものころから、なにひとつちゃんとできない。きっと、わたしは、ふつうの人がふつうに持っているものを持たずに生まれてきてしまったんだ。だから『日捺子は涼也くんの言うとおりにしておきなさい』って、『なんにもできない日捺子は、なんにも考えなくていいんだよ』って、ママとか涼也くんに言われ続けてきた。
 涼也くんの思うとおりにすること。
 それはわたしに沁みついた生き方のはず。
 なのに、最近、わたしはちょっとだけおかしい。
 ちいさなときから涼也くんとママの言うことだけを聞いて、そうやって生きてきたのに、今日みたいに間違うことが増えた。涼也くんの望まないことをしてしまうようになった。そうすると、涼也くんがあの目をする。怖い目。笑ってるのに笑ってない目。わたしはあの目の涼也くんをとても遠くに感じて、涼也くんの正解がもっと分からなってしまう。
「あ。また、間違えた」
 日捺子はスーパーに行くのとは違う道に居た。まあいいや。少し遠回りにはなったとしても、歩いていればいつか着くのだから。日捺子は進む。戻ることを、日捺子は選ばない。



 いつもと違う道には発見がある。新しいコンビニができていたり、間違えた道の方が近道だったり、あったはずのなにかがなくなっていたり。なくなっているとき、日捺子はあったものを思い出すことを試みてみる。家だったのか、ビルだったのか、駐車場だったのか。でも、それはいつもかたちになることなく、もやもやのまま霧散して、記憶の扉が開かれることは、ない。日捺子は思い出すということがいっとう苦手だった。
 今日の道には公園があった。
桜が満開の桃色の公園。そこは花見をするには小さすぎるのか、宴会をする集団は見当たらなかった。日捺子は舞い散る桃色の花びらに誘われるように中へと入っていった。桜の木を見上げて、桃色の視界のなか、ただただ歩く。手をぶらぶらさせて。のんびりと。きれいだな。桜はきれいで、かわいい。ピンク色なのがいい。だってやわらかくて、大好きな色だから。
「あっ……」
 足元がおろそかになっていた日捺子はちいさな段差につまずいた。前のめりに倒れて慌てて手をつく。ざり、とアスファルトで掌が擦れた。
「ほら。手」
 そう言って手を引いてくれた涼也は、いない。もう大人なんだから、当たり前のことだ。転んだら自分の足で立たなければならない。日捺子は立ち上がってぱんぱんと膝と手を払った。擦れたところが痛い。街灯の光に照らされた一番おおきな桜の木のしたで手のひらを見てみる。赤くはなっているけど血は出てないみたい。日捺子はそばにあった白いベンチに腰掛けて、ふぅと一息ついた。
 座ってしまうと、立つのがひどくおっくうに感じた。
 湿ったままの髪のせいで冷えて、寒さを感じ始めた。早く用事を済ませて帰った方がいいのに、足が重かった。違うかも。重いのは、もっと内側の、心っていう部分なのかも。
 「目に見えないものなんて存在しないのと一緒だよ。心とか、愛だとか、そういったものなんて。でも……」
 ふと、いつだったか涼也が言っていた言葉が浮かんだ。でも、のあとは何だったのか。
 にゃぁ。
 いつの間にか日捺子の足元に猫がいた。愛らしい顔をした緑の瞳のキジトラだった。
「どこから来たの?」
 尋ねると、猫は「に」とひと鳴きして離れていってしまった。猫の後ろ姿を追っていくと、そのもっと先にひとり、男の人がいた。


 小柄な男だった。
 その男は踊っていた。桜と一緒に、舞っていた。重力なんてないかのように男の体が軽やかに跳ねた。跳ねて、回る。回って、沈んで、また、跳ねた。男が手をすうと滑らかに夜空に伸ばすと、指の先に細い猫の目のような月があった。
 日捺子は綺麗だな、と思った。ダンスとか、そういうのよく分からないけれど、惹きつけられて、目が離せなかった。淡い金色に輝く髪の、一本、一本までが、意思を持っているかのように揺れていた。桃色の花たちと一緒に舞うその姿に、別世界のなにかを見ているような、そんな気持ちにさせられた。とても、美しかった。
 ふいに、さっきの猫が、にゃあと鳴いた。
 男が、猫に気付いて動きを止めた。
 猫が日捺子の方に戻ってくる。男の目が猫から日捺子へと移った。
 男の顔が白い光にさらされる。日捺子と同い年くらいの静かで臆病そうな目をした青年だった。
「ごめんなさい」
 日捺子は小さく頭を下げてそこから立ち去った。
駆け出した。公園から逃げ出した。公園から出ても走った。走って、走って、走って、交差点で自転車とぶつかりそうになって、ようやく足を止めることができた。
「ごめんなさい」
 日捺子をよけようとしてよろけた自転車に謝った。日捺子の心臓がばくばく激しい音を立てていた。走ったから、だけじゃない。自転車とぶつかりそうになったから、だけじゃない。
 あの目だ。そう、あの目。
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