6.

文字数 2,540文字

 なんなんだろ、このひと。日捺子は男を睨め回した。
「え、なに?そんなに見つめちゃって。照れんだけど」
 男は電子タバコから焦げた煙草を抜き取って地面に落とした。
「ごみ。だめですよ」
「はーい。ごめんなさーい」
 男はへらへら笑いながら足元の吸殻を拾う。それから内ポケットの中の紙煙草を取り出して、箱の上をとんとんと人差し指で叩いた。一本だけ飛び出した煙草を咥えて「いい?」と日捺子に目で尋ねる。別にわたしにお伺いをたてる必要なんてないのに。日捺子が返事をする代わりに軽くうなずくと、男は100円ライターで火をつけて気持ちよさそうに目を細めた。やっぱ、紙が一番うまいよね。男が言う。ふぅーっと気だるげに吐かれた白い煙が夜空に昇っていく。日捺子は煙を目で追った。慣れない煙草と強いお酒の匂いが目に沁みた。
 あやしいひとだ。なんか、ちゃらちゃら、してる。夜の男のひと、って感じ。
「僕のこと、あやしいって思ってる?」
「はい」
「だよねぇ。じゃあこれをどうぞ」
 男は咥え煙草で名刺入れを取り出すと、日捺子の膝の上に名刺を置いた。街灯の白い光が名刺を照らす。やたらと加工された目の前の男の写真と、お店と、名前。
 ―――CLUB Araja ナル
「自己紹介ね。別にあやしくないでしょう?」
 ナルが言って、また煙草をひと吸いする。これはあやしくないと言っていいのかな。日捺子は軽く首を傾げた。
「ホストとか、そういう人ですか?」
「そう。そういうひとです」
「へぇ」
 やっぱり、そういうお仕事なんだ。変な感じ。そういう人とこうして話していることが。わたしの人生で関わりあいのないひと。ナルが残り少ない煙草を指先で摘まみながら吸う。先が赤く光った。
「で、あなたはここでなにしてるの?花見、じゃないよね」
「いえ、花見です」
「寝てたじゃん」
「寝たふりです」
「いや、いびきかいてたよ」
「うそ」
「うっそでーす」
「お兄さんは」
「ナル。僕、ナルね。さっき名刺渡したでしょ」
 ナルがまた煙草をポイ捨てして、自分自身を指さした。日捺子はナルではなく捨てられた煙草を見た。ナルはそんな日捺子を気にする様子もなく話を続ける。
「え?ナルって呼びにくい?じゃあ、ナルくんとかなっちゃんとか呼ぶ?別になれなれしいとか僕、思わないから。親しくなるにはまずは名前を呼ぶことからっていうでしょう。まあ、仲良くなる必要は……」
 ナルはよく喋った。日捺子が返事をしようがしまいがお構いなしに、つらつらと喋り続けた。ちょっと、うるさい。名前を呼ぶまで永遠に止まらなさそう。日捺子は面倒くささを感じて、仕方なく名前を呼んだ。
「あの、ナルくん」
「はい。なんでしょう?」
「煙草、拾ってください」
「敬語もやめて」
「煙草拾って」
「はーい。僕、かわいい子の言うことは聞く主義なんだよね」
 びっくりするほど薄っぺらいかわいいだった。正直、ちょっとうざい。
「出てる、出てる。顔に出てるから。今うざいって思ってるよね」
「いえ、思ってないです」
「いやいや、顔に出てるから。ひどいなぁ」
 わざとらしく不満げな顔をするナルと日捺子の目が合った。ナルが顔を歪める。変顔ってやつだった。可笑しさがこみ上げてきてこらえきれず日捺子は笑った。そして、なんとなくあった緊張感とか警戒心とか、そういうものが抜けていることに気が付いた。それが、ナルの変顔のせいなのか、ナル自身の持つ雰囲気のせいなのかは分からないけど。日捺子の表情がゆるんだのを見て、ナルも頬をゆるめた。
「名前、聞いていい?」
「日捺子、です」
「日捺子ちゃんね。じゃあ日捺子ちゃん。よかったら僕の時間つぶしにつきあってくれない?」
「時間つぶしって、どこで?」
 日捺子は、身構えた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、ここだから。この場所でってこと、いい?」
 日捺子はそれならいいと、こくんと頷いた。
「あ、お礼は先払いで。これね」
 目の前に差し出されたのは缶コーヒーだった。ブラック微糖。日捺子が受け取ろうとすると、ナルは、あ、ちょっと待って、と言って一度缶を戻すと、蓋を開けたものを渡し直した。
「……ありがとう」
 両手で受けとった缶はまだあったかかった。
「いえいえ、どーも」
 香ばしいコーヒーの香りに誘われて、こくりとひとくち口に含む。微糖って書いてあるのに甘すぎるコーヒーが胃に染み入っていく。おいしかった。とても。日捺子は夢中でコーヒーを飲んだ。缶を包むように持つ手からも、体の内側からも、ぬくもりが広がっていく。
「そんなに、うまい?」
 あっという間に飲み終えた日捺子を見て、ナルが笑った。
「うん、美味しかった。ありがとう」
 ナルは、まだあるからこれも飲んでいいよと言って、もう一本、カフェオレを日捺子の横に置いた。
「で、日捺子ちゃんは、なんでここにいんの?」
 日捺子は蓋を開けようとしたカフェオレを膝の上に下ろした。ひらひらと花びらが缶の上に落ちる。なんて言ったら、いいのかな。帰れないことは言いたくない。言ったら、涼也くんが悪く思われてしまう気がする。それは、絶対にいやだった。悪いのは、わたしなのに。でも、適当な言い訳も、上手な噓も思い浮かばなかった。
「まぁ、みんな色々とあるよねぇ」
 黙りこくる日捺子を見て、ナルはそれ以上の詮索をやめた。
「ナルくんがここにいるのは、なんで?」
 今度は逆に日捺子がナルに聞いた。
「僕はかわいい女の子とお喋りしたいだけ。あとは、酔い冷まし」
 日捺子はナルの顔をじいっと見た。そして、違うんだろうな、って思った。なんとなくだけど。わたしは、馬鹿だけど、勘が悪いわけじゃない。だから、分かる。ナルくんはわたしがまだ帰れないことに気付いていて、ひとりにしないためにここに居てくれているんだろうなって。夜だから。危ないからって。たぶん。
「いいひとなんだね。ナルくんって」
 日捺子の言葉にナルはほんの少し顔をしかめて目を逸らした。ベンチの上のソフトケースから煙草一本を抜き取ると、指輪のじゃらじゃらついた指で弄ぶようにくるくる回し始める。
「人をそんなに簡単に信じるもんじゃないよ。世の中、悪いやつはいっぱいいるんだから」
 そんなことは当たり前に日捺子は知っていた。ずっと、ずっと、前から知っていた。
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