5.

文字数 2,477文字

 彼からだ。彼は家に居ない日、いつも同じ時間に電話をかけてきてくれる。日捺子は通話をタップしてスマホを耳にあてた。
「おつかれ」
 会っているときより音量が抑えられた、ちょっとふにゃりとした優しい声。
「おつかれさま」
「今日は、一日どうだった?」
 この電話の声がとても好きだと日捺子はいつも思う。
「いつもどおりの一日だったよ。ちょっと忙しかったけど」
 うんうん、と彼が合図地を打つ。日捺子は話す。お昼はサンドイッチだったこと。雨に降られたこと。花のイヤホンがきれいな色だったこと。彼の合図地が徐々に遠くなる。聞こえなくなって、日菜子は口を閉じた。耳をすまさなくても聞こえてくる、雑音。人の声。リモコンでテレビの音量を上げる。先週ラストの場面が主題歌に乗って映し出されている。気持ちの通じた二人がカメラワークを変えながら何度もキスをしている。キスシーンって大人になっても気恥ずかしい。そう思って日捺子がテレビを消したとき、ちょうどよく彼の声が戻ってきた。
「あ、ごめん。なんだった?」
「あ、いつもどおりだよって言っただけ。そっちはどう?このあいだ大きい仕事って……」
「そうそう。まだ口外禁止だから話せないけど知ったらきっと日捺子びっくりするよ」
「そうなの?」
「そう。早く話したいな」
 楽し気な笑い声が日捺子の耳をくすぐる。嬉しそうで、よかった。彼が彼ひとりでいるとき幸せなのはとても大切なことだ。
「今度……」
 帰ってくるのいつになる?続けたかった言葉は、彼を呼ぶ誰かの声に止められた。彼は電話の向こう側で楽しげになにかを話している。それは日捺子にはノイズとしてしか届かなくて、内容を聞き取ることはできない。
「あ、何度もごめんね」
「ううん……まだ、仕事中?」
「そう。今日はもう少しかかりそう」
「そっか」
「ばたばたしててごめんね」
「ううん、いいの」
「日捺子はゆっくり休んで。俺のことは待たなくていいから」
「ありがとう。じゃそろそろ切るね。無理せずほどほどにね」
「ありがと。じゃ、おやすみ」
「おやすみ。がんばって」
 電話が、切れた。真っ暗な画面を見て、日捺子はスマホをソファに放った。今日も無事一日が終わったんだ。うーんと思いっきり伸びをすると、濡れ髪から雫が、ぽたり、首筋から背中へと伝って落ちていった。冷えた体がぶるりと震える。日捺子は開けたままのリビングの窓に近付く。階下の公園の桜が目に入った。もう、残り少ない桜の花。そしてまだ降っている、雨。
 ―――これから先、ずっと、毎年、桜を一緒に見ようね
 どうでもいい約束。そんなものを覚えているのは私だけなんだろう。
 寂しさはなかった。ただ、自分だけがひとつところに取り残されているみたい、そう感じていた。




 3.夜は更け、別つ
 
 涼也に締め出されて以来、日捺子は夜の公園によく、ひとりでいる。涼也が日捺子を部屋から追い出すようになったからだ。きっかけはいつも些細なことだった。ううん、違う。涼也くんにとっては些細ではなくて、でも、わたしには、その些細ではない些細なことがいつも分からなくて、気付けなくて、やらかしてしまう。
 くしゅっと小さなくしゃみが出た。日捺子は終わりかけの桜のなかでも一番多く花が残っている木を選んで、その下のベンチに体操座りをした。持ってきた薄いストールを体に巻き付けて、膝の上に顎を乗せる。
 今日も、誰もいない。
 踊っていた男は、あの夜以来見たことがない。
 日捺子が家から追い出されたとき必ずと言っていいほど朝まで過ごす場所にこの公園を選んでいるのは、あの男にまた会えるかもという期待からだった。会ったからって、なんだってわけじゃないけど。ただ、日捺子は知りたかった。あの日感じた気持ちがなんだったのか。彼は、自分の望むものなのかどうかを。でも、期待とはうらはらに夜の公園にはあの男どころか人がいることすらなかった。いつも、ひとりだった。日捺子はほとんど諦めていた。だって、わたしの期待(願い)が簡単にかなうほど、世の中は都合よくできてないもの。日捺子は、現実を確認するように目の前に立つ時計塔(無機物)を見た。夜の10時。朝まではまだまだ時間がある。おひさまが昇って新しい一日が始まらないと、家には入れてもらえない。あと7時間ある。晴れた日でよかった。風のない日でよかった。空には少しだけど星がある。月はまんまる。桜もまだ、咲いている。
 うん。悪くない。
 ちょっと、寒いだけ。
 日捺子は縮こまって、散っていく花びらを見た。はらはらと落ちていく花びらを、小さな声で数えた。いちまい、にまい、さんまい。今日は猫、いない。こないだは二匹もいたのに。わたしは、ひとりだ。けど、寂しくはない。かわいそうでも、ない。
 だって、いちばんかわいそうなのは、涼也くんだから。
 わたしから離れたいのに、離れらない。
 ほんとうに、かわいそう。
 でも、ママとの約束は絶対だから仕方ないね。
 そういえば、ママは最近どうしてるんだろう。もうずっと会ってない。わたしはまだママの望むいい子にはなれてないから、会えない。いつか、会えるかな。ああ、眠たくなってきた。すこし、寒い。だいじょうぶ。わたしは、だいじょうぶ。日捺子は、目を閉じた。



「おーい。おねえさぁーん。おーい」
 見知らぬ男が日捺子を呼んでいた。日捺子は目を閉じたまま、その声を聴いていた。目を開けるのがおっくうだった。このまま、朝を待ちたかった。でもその声の主はしつこかった。
「おーい。おねえさぁーん。おーい」
 日捺子は少しだけ、期待をした。もしかしたらこの間の男の人かも。ゆっくりと目をあける。同い年くらいの男がしゃがんで下から日捺子の顔を覗き込んでいた。けれどそれは、日捺子が期待した相手ではなかった。
「あ、生きてた」
 男はくしゃっと笑って、電子タバコの煙を吐いた。
「ここ。俺の席なのね」
 そう言って、日捺子の座っているベンチを指さした。おじゃましまーす。軽い口調で言うと日捺子の隣に、どさりを座る。日捺子の寝起きでぼうっとした頭と体に、男が同じベンチに座る振動が強く響いた。
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