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文字数 1,144文字

 彼からだ。彼は家に居ない日、いつも同じ時間に電話をかけてきてくれる。日捺子は通話をタップしてスマホを耳にあてた。

「おつかれ」

 会っているときより音量が抑えられた、ちょっとふにゃりとした優しい声。

「おつかれさま」
「今日は、一日どうだった?」

 この電話の声がとても好きだと日捺子はいつも思う。

「いつもどおりの一日だったよ。ちょっと忙しかったけど」

 うんうん、と彼が合図地を打つ。日捺子は話す。お昼はサンドイッチだったこと。雨に降られたこと。花のイヤホンがきれいな色だったこと。彼の合図地が徐々に遠くなる。聞こえなくなって、日菜子は口を閉じた。耳をすまさなくても聞こえてくる、雑音。人の声。会話。リモコンでテレビの音量を上げる。先週ラストの場面が主題歌に乗って映し出されている。想いの通じ合った二人がカメラワークを変えながら何度もキスをしている。こういうのって大人になっても気持ち悪いものだな。そう思って日捺子がテレビを消したとき、ちょうどよく彼の声が戻ってきた。

「あ、ごめん。なんだった?」
「あ、いつもどおりだよって言っただけ。そっちはどう?このあいだ大きい仕事って……」
「そうそう。まだ口外禁止だから話せないけど知ったらきっと日捺子びっくりするよ」
「そうなの?」
「そう。早く話したいな」

 楽し気な笑い声が日捺子の耳をくすぐる。嬉しそうで、よかった。彼が彼ひとりでいるとき幸せなのはとても大切なことだ。

「今度……」

 帰ってくるのいつになる?続けたかった言葉は、彼を呼ぶ誰かの声に止められた。彼は電話の向こう側で楽しげになにかを話している。それは日捺子にはノイズとしてしか届かなくて、内容を聞き取ることはできない。

「あ、何度もごめんね」
「ううん……まだ、仕事中?」
「そう。今日はもう少しかかりそう」
「そっか」
「ばたばたしててごめんね」
「ううん、いいの」
「日捺子はゆっくり休んで。俺のことは待たなくていいから」
「ありがとう。じゃそろそろ切るね。無理せずほどほどにね」
「ありがと。じゃ、おやすみ」
「おやすみ。がんばって」

 電話が、切れた。真っ暗な画面を見て、日捺子はスマホをソファに放った。今日も無事一日が終わったんだ。うーんと思いっきり伸びをすると、濡れ髪から雫が、ぽたり、首筋から背中へと伝って落ちていった。冷えた体がぶるりと震える。日捺子は開けたままのリビングの窓に近付く。階下の公園の桜が目に入った。もう、残り少ない桜の花。そしてまだ降っている、雨。

 ――これから先、ずっと、毎年、桜を一緒に見ようね

 どうでもいい約束。そんなものを覚えているのは私だけなんだろう。
 寂しさはなかった。ただ、自分だけがひとつところに取り残されているみたい。心を埋める感情から、日捺子はいつだって目を逸らす。
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