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文字数 1,321文字


 わたしたちがまだ小さかったころ、ママはときおり子どもたちが眠ったあとにどこかに出かけて行った。わたしはとても寝つきのよい子どもだったから、ママが外に出ていくのに気付くことはただの一度もなかった。
 でも、帰ってきたときは別だ。ママはいつだってただいまと大きな声で言って、まだ眠っているわたしにぎゅうと抱き着くのだ。お酒のにおいをぷんぷんさせて、布団ごと、苦しいくらいの強さで。
 ひなこ。ひなこ。
 ママがわたしを呼ぶ。わたしは目を閉じたまま返事をする。はい、ママ。おかえりなさい。寝ぼけたあたまとからだのなかに、お酒とあまい香水のにおいがしみこんでいく。ひなこ。ようく、おぼえておくの。とろんとした脳みそにママの声が溶けていく。ひなことすずやはちがつながってないの。ほんとうのきょうだいじゃないの。すずやはママがひろってきたの。ひなことママだけのひみつ。わすれないで。ひなこはすずやがすき。ずっとすき。すこやかなるときもやめるときもそばにいることをちかいます。ひなこがすずやとずっといっしょにいるためのまほうのじゅもん。こころにとどめておくのよ。ずっと、ずっと、わすれちゃだめよ。





 
「今日はぜったい7時には帰るから!」

 そう言って、彼は元気いっぱいで出かけて行った。
 日捺子はそんな彼を思い浮かべながらバースデーソングを口ずさんだ。はっぴばーすでーとぅーゆー。はっぴばーすでーとぅーゆー。ずいぶんと調子っぱずれな歌。

 日捺子は自分に問う。
 私は今、楽しいのかな。
 だいじょうぶ。
 たぶん、楽しい。

 まだ本格的な夏が来る前の7月。白南風がカーテンをたなびかせている平日の昼下がり、日捺子はキッチンにいた。日捺子の目の前の箱の中には、午前中に届いた真っ赤な苺が行儀よく並んでいる。日捺子はそれを一つずつ丁寧に取り出し水洗いをする。傷付けないように、慎重に。キッチンペーパーで拭いてから、ケーキに挟む用と飾り付け用に分けて皿に乗せた。挟む用は薄くスライスして、ついでに、ひとつだけつまみ食いしてみる。

「うん。ちょっと酸味あるかな」

 これなら生クリームに入れる砂糖は少し多めの方がいいだろう。彼は甘い方が好きだから。砂糖を大さじ一杯分ボウルに追加する。日捺子はハンドミキサーで生クリームを泡立てていく。たまにビーターがボウルに当たって、ごっ、ごっ、と振動が手に伝わる。日捺子はその感覚がなんだか好きだったりする。

 ハンドミキサーはなんて便利なんだろう。あっという間にボウルいっぱいのホイップクリームができた。それを昨日作って今朝切っておいたスポンジに塗っていく。それから苺を断面を考えて並べる。もちろん上にも。形がきれいで大きいのを、良いバランスで9個飾る。頑張って書いたバースデープレートと、別で買っておいた繊細な作りのチョコの花も乗せた。日捺子は皿をゆっくりと回しながら全体のバランスをチェックしていく。多少クリームの塗りむらはあるけれど、はじめて作ったにしては良くできてるでしょう。

「うん、いい感じ」

 プラスチックの蓋をかぶせてケーキは冷蔵庫にしまった。次は、料理、料理。ひとりごちながら、時計を見る。午後4時。彼が帰ってくるまで、あと3時間だ。


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