6-11

文字数 1,237文字

 誰にでもなく言い訳をしながら、日捺子は床を汚さないようにつま先立ちでバスルームに行った。タッパーの入った紙袋を脱衣所の隅に置き、穿いていたロングスカートを捲り上げ落ちてこないようにぎゅっと裾をしばった。バスルームの床に足を乗せ、手を伸ばし、シャワーの蛇口をひねる。思っていたよりずっと冷たい水が勢いよく足を濡らし、わっ、と声が漏れた。汚れているはずの足を通っていく水は透明なままだった。そんなに汚くなってなかったのかな。片足をあげると白い床に黒い足跡が残った。けれどそれはすぐに水に流され、あとかたもなく消えていく。日捺子は洗顔ネットでボディーソープを泡立てた。両手いっぱいの泡で足を洗っていく。指と指の間まで、丁寧に。汚れが僅かにも残らないように。




 きれいになった足で日捺子はキッチンに向かった。そこにはまだ料理の匂いが充満していた。デミグラスソースの脂っぽい匂いだとか、焦げたチーズの香ばしいだ匂いとか、そういうのが混ざって空気を澱ませていた。出来立ての時は良い香りだったとしても、時間が経ち、いっしょくたになれば、変質し、濁る。なんだってそうだ。変わらないものなんてない。日捺子は換気扇を回して、窓を開け放った。初夏の湿り気のない風が入ってくる。けれど清々しさは感じられない。

 日捺子は紙袋からタッパーを出した。流しに浸けておいた皿と鍋と一緒に、ひとつひとつきれいに洗っていく。こびりついた脂とか、ソースを、ぬめりがなくなるまで、しっかり泡立てたスポンジで擦って、勢いよくお湯で流した。皿もタッパーも鍋もクロスで水気がなくなるまで拭いて、それぞれ食器棚、吊戸棚、流しの下にしまっていく。

 次に雫がなくなるまでシンクを拭きあげる。換気扇のフィルターも取り換えゴミ箱に捨てた。ついでに掃除機をかけて、床も水拭きした。脂の匂いは残るから。足の汚れが残っているかもと、玄関からバスルームまでの廊下もついでに拭いた。力のままにこすっていたら途中ぽたりと汗が落ちた。

 最後に消臭スプレーを手に取った。クラシックフローラルの香り。これは結局なんの匂いなんだろう。いい匂いだけれど。しゅっ、しゅっ、と歩きながら満遍なく撒いていく。途中顔にかかって軽くむせた。ちゃんと匂い消えてるかな。気になった日捺子は嗅覚をリセットするためベランダに出て、鼻から何度も空気を吸い込んだ。部屋に戻るとき、室外機の上の枯れたハーブの鉢が目の隅に入る。立ち止まり、少し考え、なにもせず中に入った。すんと鼻を鳴らし、改めて匂いを嗅いでみる。どれだけ空気を吸い込んでみてもクラシックフローラルの香りしかしなかった。

 もう、誕生日祝い(いらないもの)の痕跡はなにもない。
 ぜんぶ元通り。
 残ったのは冷蔵庫のなかのバースデーケーキだけ。

「あ、そうだ」

 クローゼットの中に隠しておいた彼への誕生日プレゼントをダイニングテーブルの上に置いた。“お誕生日おめでとう”のメッセージカードを添え、ケーキ冷蔵庫の中にあるよと付箋で追記した。
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