5-7

文字数 1,217文字

「あ、わたし。日捺子、です」

 虎汰くん居たんだ。日捺子はほっとした。けれど、なにかがひっかかった。なにかが、いつもと違う。

「ちょっと待ってて。すぐ開けるから」
「はい」

 あっ、そうか。日捺子は気付いた。
 虎汰くんはいつもはインターホン越しに会話をしない。モニターで確認だけして、日捺子ちゃん、いらっしゃいってすぐに開けてくれるんだ。

「はい、どうぞ」

 扉の先にいたのは虎汰ではなかった。

「……あ、あの、ごめんなさい。すみません」

 日捺子は思わず謝った。部屋を間違えたと思ったからだ。後ろに下がって部屋番号を確認する。合ってる。ここは虎汰くんのおうち。

「間違ってないよ。ここ、とらちゃんちだから」

 その男が日捺子に言う。

「とら、ちゃん?」

「結城 虎汰。会いにきたんでしょ? そんなとこ居ないで中入りなよ」

 手首を掴まれて部屋に引き入れられる。日捺子の背後で扉がしまって、男が鍵がかけた。男の人、すごく近い。ぷん、と漂う香水と煙草の混じった匂いに、日捺子の脳が刺激される。あ、知ってる、わたし。これ。この匂い。

「あの、手」
「あ、ごめんごめん」 

 その男が日捺子から手を離した。かち、と乾いた音がして玄関が明るくなる。その顔が、はっきりと見えた。男が日捺子を掴んでいたのとは反対側の手に持っていた電子タバコをひと吸いする。焦げくさい。香りが記憶を呼び覚ますって、ほんとだ―――煙草。缶コーヒー。ひらひら舞う桜。朝の街で交わしたさようなら。
 男は白い煙を宙に向かって吐いて

「久しぶりだね、日捺子ちゃん」

 と、にやりと笑って、言った。





 人当たりがいいとは言い難い、うさんくさい笑顔で迎え入れたその男は、部屋に上がることをためらう日捺子の背を押して、いつもの——虎汰と一緒にいるときの特等席の——ビーズクッションになかば強引に日捺子を座らせた。

「あ、あの」
「ちょっとここで待っててね」

 日捺子の肩に置かれたその人の手がぐっと押される。動くな、と。そこにいてね。言葉でもしっかりと念を押して、男は玄関すぐのキッチンへと戻っていく。

「ねー、なにが飲みたい?って……相変わらず甘い物しかねーな。この家」
「あの、わたし」
「いいから。いいから。適当に用意するからちょーっと待っててくれるかな?」

 半疑問形。優しい、話し方。なのに、それは強制だった。帰るという選択肢は与えられていないことを察して、日捺子は立ち上がろうと浮かせた腰を戻した。

「あ、はい」

 クッションが体のかたちに沈んでいく。日捺子はキッチンでだるそうに動く男を見た。

 ぼさっとしたセットされてない明るい茶髪。大きめの黒縁のメガネ。フープピアスが二つ左耳で光っている。ハイブランドのロゴTに黒のストレートパンツ。

 一見どこにでもいそうな普通の男の人なのに、休日の会社員にはどうしたって見えないのは、どこか世ずれした男の雰囲気のせいなのだろうか。軽佻浮薄(けいちょうふはく)。涼也が嫌いそうな単語が、日捺子の頭に浮かぶ。
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