7-13

文字数 1,275文字

 わたしが涼也くんをおそれるなんて、そんなことあってはいけないのに。
 それは、日捺子の前で立ち止まり、すっと、いちど、息を吸った。それの表情はまったくわからなかった。でも、目が暗闇に慣れてきてそれが涼也だと分かると、さっき感じたおそれはすうとどこかに消えていった。
 ほら、わたしが涼也くんを怖がるなんてありえないことなんだ。
 けれど、安堵は一瞬だけだった。

「酒臭い」

 涼也がふいに日捺子の髪を鷲掴む。ぐいと後ろに引かれ、日捺子はバランスを崩して後ろに倒れた。涼也はそんな日捺子に構うことなく、臭い、臭い、と言いながら、日捺子を引きずっていく。
 日捺子が連れて行かれたのは風呂場だった。背中から突き飛ばされ、日捺子は洗い場に突っ伏し、倒れ込んだ。

「お酒の匂い。嫌い。嫌だ」

 涼也が日捺子の頭にシャワーをかけた。冷たい水が、頭から顔を伝い、目の前の洗面器に溜まっていく。涼也は日捺子の頭を押さえ付けた。顔が、水の中に沈む。ぶくぶく。ぶくぶく。空気が漏れる。息ができない。でも我慢した。がんばって息を止める。でも、止め続けることなんてできなくて、鼻から水が入ってくる。痛くて、苦しくて、日捺子はもがいた。一瞬、涼也の手が緩む。日捺子は顔を上げ、息を吸った。ひゅーひゅー喉が鳴る。シャワーの水に邪魔されて、空気は少ししか入ってこない。またすぐ、涼也に顔を洗面器につけられる。我慢する。苦しい。もがく。限界がきたころに、涼也が力を弱める。息をして、また、水の中にもどる。だめだ。だめだ。悪いものは全部ださなきゃ。あれがくる。あれはもういないはずなのに。とぎれ、とぎれに、涼也のつぶやきが聞こえる。そして、なんども、なんども、水に顔を沈められる。苦しい。苦しい。それが、何回も、何十回も、繰り返されたのち、にわかに頭をおさえるつける手がなくなった。日捺子は顔をあげる。シャワーは洗い場で水を吹いて暴れていた。涼也くんは、どこ? 日捺子は、むせながら、顔を手でぬぐって、涼也を探した。

「涼也くん。涼也くん」

 涼也は脱衣所の壁に寄りかかり目を閉じていた。ぐったりとしていた。涼也くんのそばに行きたいのに、体に力が入らない。日捺子は、這いずりながら涼也のところまで進む。風呂場と脱衣所の境目で、膝を強く打った。でも、そんなことはどうでもよかった。

「涼也くん」

 日捺子は、涼也に縋り付き掠れた声で名を呼んだ。涼也は動かない。

「涼也くん……涼也くん……おにいちゃん」

 涼也の顔がぴくりと動いた。そのまま日捺子に覆いかぶさってくる。日捺子に涼也は支えきれなくて、背から勢いよく倒れてひどく頭を打った。目の前がちかちかした。それでも声はあげなかった。

「おにいちゃん。日捺子だよ。だいじょうぶだよ。日捺子がそばにいるよ」

 愚直さは罪だ。そんなこと知ってる。愛だって、恋だって、全部が罪だ。それでも、わたしは、まっすぐにつたえることかできない。わたしは誰よりも愚かで、かたくなだ。

「愛してる。おにいちゃん」

 存在しなくたって、わたしは信じている。
 日捺子は強く、涼也を抱きしめた。
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