3-11

文字数 853文字

 日捺子がうんと頷きふたりで駅へと歩き出した。沈黙。ちらりと横目でナルを見る。こういうとき、先に口を開くのはいつだってナルくんの方だ。

「ごめん」
「なにが?」
「残業減らしたいって言ってたのに」
「減ってはいるから大丈夫ですよ。社長」
「そういう話し方やめてくれない? 俺、敬語嫌いなの」

 どこか懐かしさを感じる台詞だった。ナルは変わらない。立場は変わっても、ナルはナルのままだ。日捺子は笑みを含んだ声で言う。

「遅くなるのたまにだから、大丈夫」
「ほんとうに大丈夫?」
「うん。大丈夫」

 結果がどうであろうとまずは行動に移すこと。一歩ずつ。一歩ずつ。そういう風にしか日捺子は進めない。

「ねぇ、ナルくん。私って、ちゃんとしてる?」
「うん。してるよ。いつも助かってる」

 駅はもうすぐ目の前だ。

「ここで大丈夫。ありがとう」
「あ、うん。また明日」

 日捺子はさよならと手を振って地下鉄への階段を下りていく。途中、立ち止まって、振り返る。ナルはまだ日捺子を見ていた。でも、逆光に阻まれてその表情を見ることは叶わなかった。





 ただいま。いつものように誰もいない部屋に向かって日捺子は言う。玄関の明かりを点けると廊下の隅に靴下が落ちていた。一度、帰ってきたんだ。日捺子はかたっぽだけの靴下を拾ってリビングに行った。テーブルの上には一枚のメモが置かれている。

《おかえり。おつかれさま。
 冷蔵庫におみやげあるよ。食べてね。》

 見慣れた彼のお世辞にも上手とは言えない字。日捺子はメモをテーブルの上に戻すと、冷蔵庫には目もくれず脱衣所へと向かった。洗濯機の前のランドリーボックスは彼の洗濯物でいっぱいになっていた。それを一つずつ手に取って分けていく。色柄もの、白いもの、さっきの靴下の片割れ、派手なボクサーパンツ、はじめて見るTシャツ。
 日捺子は洗濯物を床に放って膝を抱えて座った。春の終わり、少し底冷えのする脱衣所。ポケットからスマホを出す。文章を打っては消し、打っては消しを繰り返す。結局『おみやげありがとう』だけを送って、スマホを置いた。
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