第35話 皇子と妃の企み
文字数 4,751文字
翡翠は孔雀が執務室に戻ってきたのを迎えるとその様子が少し違うのに気づいて立ち上がった。
孔雀は翡翠の正面で優雅に礼をした。
「・・・陛下。先程、鳥が一羽飛び立ちましたので御報告申し上げます」
翡翠は孔雀を自分の傍に座らせた。
瑠璃鶲の死の際の悲しみっぷりを見ていたから心配していたが、落ついている様子にほっとした。
辛い最後であったのは予想がつく。長年ペーパードライバーであるがこれでもドクターだ。
川蝉は最後は肺に水が溜まっていき、呼吸が不可能になり、地上で溺死するほどの苦しみだ。
「翡翠様。川蝉お兄様をお迎えに、木蓮様がいらしたんです」
孔雀はにこやかにそう言った。
面識はないけれど、映像資料でも写真でも見たことがある。天河に似た榛色の瞳。
翡翠はちょっと驚いたが、興味深そうに孔雀の話を聞いていた。
「早くと急かして、川蝉お兄様と一緒に行かれました」
ああ、と翡翠は笑った。
「せっかちだったからね」
そうでしたか、と孔雀も微笑んだ。
翡翠は木蓮と川蝉の事を知っていたのだろうとは思っていたが。どこまで・・・いや、知らぬ方が、聞かぬ方が良いか、と孔雀はちょっと眉を寄せた。
「本当は、川蝉に木蓮をあげるつもりだったんだよ」
驚いて孔雀は翡翠を見上げた。
「木蓮とその計画をしていた、というか」
「まあ・・・・。ご継室やご寵姫を下賜する例は確かにございますが・・・」
前例がある、とは言ってもここ百年は無いが。
「いつからそんなご計画をされていたのですか?」
家令の誰かが嗅ぎつけなかっのだろうか。
「梟は知っていたかもしれないけど。・・・木蓮が第二子を妊娠したって言ってきたあたり。誰の子だろうが構わないけど、産むのかと聞いたらひっぱたかれた」
それは、と孔雀もさすがに閉口した。
「家令相手ではございませんよ。木蓮様もお怒りになったでしょう」
「怒るのなんのって。・・・で、考えたわけだ。下賜出来るってね。でもまさか妊娠したままでは体裁が悪いから。産んでから数年後、という形にしようと落としどころを決めてね。・・・待ってさえくれれば良かったんだけど」
間に合わず、彼女はこの城で殺された。いかに後悔した事か。
「川蝉お兄様はご存知だったんですか?」
「知らない」
翡翠が笑った。いたずらがばれなかった、というように。
「木蓮とびっくりさせたいから黙っていようって決めたから」
翡翠と木蓮の関係は良好、姉弟のように仲が良かったと梟が言っていた事があったけれど。
「お二人でそんな悪巧みをされていたのね」
翡翠がそう、とまた笑った。
孔雀は、木蓮と呼ばれた二妃の事を思った。
「・・・そうか。彼女が迎えに来たのなら。もう迷わないな」
翡翠はさっぱりした顔でそう言うと、孔雀を抱き寄せた。
「翡翠様。この度、木蓮様がいらしたのは驚きましたけれど。私、今までの総家令のお兄様やお姉様方の日記を読んで、お迎えが誰かしら来る事になっているようだ、という記述がいくつかあったんです。だからちょっと楽しみにしていて」
瑠璃鶲の時も、不安ながら、その時を待っていたのだ。
彼女はついに正式に総家令の任は受けず、琥珀が黒曜帝及び長兄から王位を簒奪すると同時に、総家令代理の職務から離れ、白鷹にその任を譲ったわけだが。だから、彼女もまた白鷹にその地位を奪われたのだと周囲からは思われている。
「・・・瑠璃鶲お姉様はお若い時からとても優秀な方だったそうです。金緑帝様が、まだ十代前半の瑠璃鶲お姉様に、アカデミーに一生を捧げる事をお許しになったくらいに」
医学、天文学、地質学、物理学、不思議なところでは美術史にも通じていた。
「抜群に優秀だよ。・・・現在であっても・・・翠玉か、彼女か、という程だと思う」
確かに、アカデミーに保存されているナンバリングと呼ばれる、後世に渡って影響を及ぼすほどの素晴らしい研究資料、と認定されたものは直近ではあの二人の実績が一番多いだろう。
自分の才知と努力で、家令としてそれに報いるために生きてきたのが瑠璃鶲だと思う。
弟弟子妹弟子の面倒もよく見たし、アカデミーでも沢山の教え子に慕われた。
群を抜いて優秀。そこを鶚は心配であると日記に書き残していたのが印象的で覚えていた。
彼女の本質は、多分、孤高というものだ。
「それでも家令ですから。兄弟姉妹がいますでしょう。だから私、日記に書いてあったお姉様かお兄様のどなたが来るのだろうと、ちょっと楽しみにしていたんです」
でも。誰も姿を現さなかったのだ。
「・・・・それが私どうしても悲しくて。瑠璃鶲お姉様は、泣いている私の頭を撫でてくださって。おひとりで旅発って行かれたんです」
それで、孔雀は長く落ち込んでいたのか。
「誰かを理解しようと思う時。その方が誰を愛して誰を愛さなかったかというのは重要だと思うんです。誰かと愛し合う難しさというか。誰かを好ましいな、と思う感情とか。・・・でも、瑠璃鶲お姉様にそういう特定の感情は無かったんです。その気持ちのまま、大変な時期に宮廷にいらしたというのは、どれだけお辛かったのか・・・」
何より、彼女が旅立って行く姿は、ちっとも楽になっていないようで。
さらに辛い死出の旅路を予感させるような、そんな様子で。
まだ子供の孔雀には、堪えたのだ。
何より、書き残すという義務のある日記に、瑠璃鶲の死の事柄と、その様子を書いた時。辛くて仕方なかった。姉弟子はひとりで旅発った、とそう書いた時。
何か、違う方法が無かったのか、ではどこから何か出来たのか、と偏執的なまでに、過去の日記を読み起こしたものだ。でも、結局何も見つから無かったけれど。
瑠璃鶲は、正式に総家令になったわけではないから、日記も書き残してはいない。ただ、次の総家令達にと、資料をいくつか遺して行った。
それはどれも貴重なものだ。フィールドワークを厭わない彼女が、自分の目で見て、考え、手で書き残したもの。きっと、これは私たちを救うものだ、と信じて遺したもの。
彼女は何か報われただろうか。そればかりが心残りで。
川蝉は間違いなく報われた。皇帝に継室に入ったというのに、そこから更に川蝉のもとへ嫁に行くのを楽しみにまでしていたような木蓮が迎えに来たのだもの。
でも、じゃあ、あの姉弟子はと、どうしても思ってしまう。
それも家令の一つの生き方かもしれないけれど。
言いたい事を言い好きな事をして、ある意味刹那的に正しく家令として生きる他の兄姉姉妹を思うと、どうしても居たたまれなくなるのだ。
「瑠璃鶲は、確かに家令には向かなかったかもしれないね」
白鷹なら、家令に向き不向きなんかあるもんか、なっていくものなんだよ、とでも言いそうだが。
「二十歳代の瑠璃鶲は、泥沼になっていく戦争の舵取りを突然任されて、戦死してく兄弟姉妹達を思いながらなんとか踏み止まったんだ。間違いなく、才能はあったと思うよ」
確かにそうだ。大戦が終わってみて、残った成人家令はたった五人。唐丸、猩々朱鷺、瑠璃鶲、白鷹、梟。
その内の唐丸と巫女愛紗は戦争で負傷して、唐丸はなんとか復帰したが、巫女愛紗は宮廷を辞して修道院に下がっていた。
かくして瑠璃鶲は、切り抜けたのだ。そして、復興の基礎を作った。
孔雀は少し救われる気持ちで頷いた。
「愛するとか愛されるとか。それはもう、本来、芸術家の才能が有るとか無いとか、そういうものに近くて。得難い才能だと思う。人間というのはやっぱり、大きく何か突出したものがあるというのは、どこかが大きく欠落しているのではないかな、と思うんだけど」
「・・・でも、それを仕方ないと言ってしまうのはちょっと乱暴です」
翡翠は膨れた孔雀の頬を突ついた。
「・・・うーん。なんていうかな。人間程多様性を受け入れた生き物はないんだよね。鳥や魚やカブトムシは姿形にバリエーションはあるけど。例えば、何かカブトムシや魚に危害を加えるウィルスがいたり、合わない環境になったらすぐ全滅すると思う。でも人間は、その多様性を受け入れて、社会性でもってフォローするという方法で、人間という大きなくくりの種を残す事にしたわけだよね。個人の種とかその個性や意思、幸福なんかはその大きなくくりの中では、どうでもいいわけで。だから、瑠璃鶲はまことに正しい。我も我も正しい。種として間違っている存在などいない。・・・私よりだいぶ頭のいい婆さんだもの。そんなことすっかりわかってるよ」
孔雀は頷いた。
けれど、悲しい。
翡翠は孔雀に向き直った。
「しかし。その中でも、例えば誰かを愛するとか、愛さないとか。それが叶うとしたら、それはもう望むべくもないことで」
と、尤もらしく述べてみても、そう思うようになったのも、ここ数年だが。
「孔雀は、宮廷に上がって、早四年になるわけだけども。その間、家令にしては珍しく、あちこちからの誘いにも興味を示さず、寵姫宰相なんて呼ばれるようになってしまって」
「・・・ご不快ですか・・・?」
「ちっとも。むしろ嬉しいくらいで。でもなぜかな、と考えたりもするね」
例えば孔雀の姉弟子兄弟子は派手な交際関係でいつも揉めているし、白鷹は琥珀と愛し合ってはいたけれど、お互い他に恋人もいた時期もあったし、結婚もしていた。しかし、この総家令に関して浮いた話はまだ聞こえて来ない。
孔雀は不思議そうに翡翠を見た。
「・・・・私には、そっちの方が大事だったからです。限られた時間であるんですもの、心を通わせた方と愛し合ってるほうが大事」
孔雀は恥ずかしそうに頬を染めた。
「それに私、翡翠様から総家令を拝命しました折、家令は真心を込めてお仕え致しますと、私は誠実である事をお約束すると申し上げましたもの・・・自分でも不思議なくらい、心持ちが変わりませんのは、翡翠様がやはり誠実だからだと思うんです」
翡翠は孔雀を抱きしめた。
私は貴方に誠実である事を約束致します。それは例えば貴方が愉快に思わない事もあるかもしれません。でも、それも、私の誠実であろうとするが故にです。
たった十五の小娘の精一杯。背伸びをして、手を伸ばし、更に精一杯。でも、本当の気持ちだった。
そう言われて、翡翠は雷に打たれたような気持ちになったのだ。
孔雀は、そっと翡翠の首に手を伸ばした。
「ああ。最近何食ってもうまいんだよ。それに朝起きてわくわくするのは、なんでかな」
梟に言ったら、健康だからじゃないですか、とそっけなく言われたが。
まあ、と孔雀は嬉しそうに微笑んだ。
「翡翠様、それは幸せですね」
そうか、これか。
やはり間違いなく自分にとって孔雀は、福音、天恵というものだ。
孔雀にとってそう言われるのは嬉しいが、不思議だ。
違う方面からは、天下った邪鬼だの、悪魔だのとも呼ばれているから。
「翡翠様、私、明日、尉鶲をガーデンに迎えに行こうと思います」
孔雀が川蝉の死を心配して、そうとは言わず宮廷から息子である尉鶲を遠ざけたのだ。
「・・・私も行こうかな」
気軽にそう言うので、笑ってしまう。
確かに、彼は、あちこち忙しく立ち回る孔雀について行く。
軍であったり、あちこちの研究機関、国のエネルギーの要であるキルンと呼ばれるレアアースと新電池の発電所にまで。
あまり社交界を好まない皇帝だが、人々と親しく交わるのはお好きであると評価も高い。
これだけ皇帝や王族が身軽に歩き回れるのは、治安がいい事が担保に勿論あるし、家令が身近に控えているからだ。
「きっと尉ちゃん、白鷹お姉様にしごかれてるから。さすがに翡翠様がいらしたら白鷹お姉様だって、振り上げた物差しを下げるでしょうね」
孔雀がおかしそうに笑った。
「・・・ああ、なんだか。とっても地に足のついたような気分です」
やっと、姉弟子と兄弟子の死を飲み込めたというか。
「翡翠様のおかげですね」
孔雀もまた幸せそうに微笑んで、翡翠の頬に唇を寄せた。
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