第126話 春を待ちかねて咲く花
文字数 6,699文字
潔癖なまでに、病質的なまでに。
けれど訪れた人間は、離宮として何かが違うという違和感を抱く。
はて、それが何であるか言語化出来ない程にただ整然としているのだ。
梟は、昔、孔雀が「病院みたい」と呟いたのを思い出す。
離宮にしては、寛ぐ雰囲気が少ないのだ。
どこかいつも張り詰めた雰囲気がするのは、白鷹のせいなのだと思っていたが違う、いつも神経を張り巡らせていたのは、亡き女皇帝であったのだ。
白鷹は、離宮に携わっている人員には殊の外厳しく、庭に、通路に、枯葉の一枚、小石の一粒でも落ちていたら烈火の如く怒り出すと皆震え上がっているし、非難の的だよ、と孔雀にぼやいたものだ。
末の妹弟子がまだ見習い家令程であった時に、手を繋いでこの廊下を歩いている時、目が見えないからよ、と唇だけでそう伝えて来た時にはっとしたものだ。
琥珀が離宮に居を移した時、自分の愛するものだけ、好きなものだけを持って行ったと非難されたが、それは大急ぎでほぼ捨て去るように持てるものだけ持って行ったとも言えた。
身の回りの物をコンパクトにし、急いでいたのは守るためで、それは女皇帝の視力が落ちていたからか、と梟は合点が行った。
しかし、華奢であるがあの毅然とした、いつでも飛びかかる準備は出来ている大型のネコ科のような女皇帝は、そんな素振りを見せたことなどなかった。
離宮の中を好きなように歩き回っていたではないか。
信じ難く困惑していると、孔雀は、壁にある凝った彫刻の溝を指で辿り始めた。
上から、こっちがお庭、こっちが白鷹お姉様の部屋。そう言って。
この溝を辿ると、確かに目を瞑っていても離宮のあちこちに辿り着ける。
ああ、だから、姉弟子は彼女の歩くであろう道に、何か落ちているのを嫌ったのか。
病気であるのかと訝ったが多分、琥珀は若い頃に従軍し、大怪我をした事があったのだ。その後遺症では、と思う。
大戦の折、家令どころか王族まで戦死した時代だ。
自分達の兄弟子姉弟子、つまり親も戦死した。
総家令を辞してから何度も訪れていた極北の地は、自らも少年の日に果たしてここに居たのかと信じがたい程の荒野であった。
女官が梟の来訪を白鷹に伝えた。
中庭の一角で、姉弟子が椅子にかけていた。
寛いでいる、という様子ではなく、苛々としている様子だった。
「白鷹姉上」
姉弟子に礼を尽くすと、彼女は頷いた。
来るのはわかっていたのだろう。
座りなさい、と椅子を勧めた。
梟は椅子にかけると、ふと顔をあげた。
風に乗って、芳香を感じる。
この庭はいつも良い香りがする。
妹弟子が亡き女皇帝の為に季節事に香りのする樹木ばかり植えた一角があるからだ。
香りの庭と言って、琥珀は喜んだそうだ。
特に、春を待ちかねて香るこの瑞々しく小さな可愛らしい花姿を愛したらしい。
「・・・良い香りですね」
「
まあ聞いたことはあるような気はするが、植物には大して興味が無い梟が適当に頷いた。
「ああ・・・思い出してならないわ」
白鷹が苛立っている原因はこれだ。
この庭で、この香りで、どうしても妹弟子に自分がした所業を思い出す。
彼女はつまり罪悪感に苛まれているのだ。
「姉上、孔雀を大神官にというのは?」
鷂が連絡を寄越したのだ。
あのババア、孔雀の存在を殺す気よ、と。
大神官は外界との接触を禁じられて視力を奪われて神殿の奥の院でほぼ一生を神に仕えて過ごす。
今まで、その任に耐えたのは、王族で数人、家令では遠い昔に一人だけ。
「その命令は翡翠様が破棄したはずですが」
真鶴に恐喝されて、翡翠が逆に
確かに、孔雀は一度大神官候補になってはいるが、総家令を賜った際に反故にされているはずだ。
「あれは延期よ、取り消しになんかならない」
「・・・・姉上」
孔雀を神殿に閉じ込めたのを後悔している様子なのに、なぜそこまで
「
万が一を考えなさい、我々家令の命運がかかっている。
翡翠から天河と真鶴、どちらに乗り換えるの。
そう聞いたが、あの妹弟子はそんな必要ないと言ったのだ。
だから、あの地獄の底のような場所に閉じ込めた。
幼い日、腹を食い破られるような目に遭わせたのに。
「しばらくして考えを変えるなら出してやるわ。・・・きっと変えないから、あの子は大神官にする」
白鷹は深くため息をつき、唐突に弟弟子を睨みつけた。
「・・・・お前までがヘルメスだったなんて」
宮廷を国体を揺るがす思想。
女皇帝と自分が恐れ、ヘルメス狩りは一時、苛烈を極めた。
琥珀からの命令を受け、その陣頭指揮を執ったのは、この梟だ。
「お前はあの時なんのつもりでいたんだい。・・・お前が、真珠や大鷲に吹き込んだの・・・?」
だとしたらなんと恐ろしいことを、と老女家令の目が憎しみよりも恐れで揺れていた。
梟は首を振った。
「そもそもヘルメスは意思体のようなもの。自分がそうであると思えばそうであり、そうでない時はそうではない。輪郭を曖昧にする思想。自分がそうかどうかはわからない。発症したり、しなかったり。気がつくとキャリアになっていたりする。タチの悪いウィルスのようなもので、だから厄介。でもその毒は、曖昧な夢のように人々の中に間違いなく広まっていくんです」
白鷹がなんだいそれは、と呆れたように天を仰いだ。
「・・・そんないい加減な流言飛語のようなもので・・・・。孔雀じゃないんだよ。大昔は、変な
白鷹がはっとしたような顔をして梟を見た。
「・・・あの子も・・・・?」
「まあ、恐らく」
白鷹が顔を覆った。
「・・・・・・あぁ、あの絵描き。そうだ、あいつとあの子の家は古くは続いてたはずだ・・・・」
大昔、
「お前も五位鷺お兄様の日記を読んだろ?・・・異常な話だよ。あいつら三人で結婚してたんだよ」
そして、蛍石女皇帝と五位鷺はA国で凶弾に倒れ、暗殺された。
その後、蛍石女皇帝と五位鷺の子は、皇籍を離れて国外に出た。
蛍石女皇帝と継室の皇女が皇帝の地位に就き、存在を疎まれたからだ。
「問題なのはここから。・・・・
そして、佐保姫残雪の方は。
新たな皇帝の嫌がらせで、A国に人質に出されたのだ。
彼女はA国の高官であった男を連れて帰国し、子供を産む。それが孔雀に続くわけだ。
「・・・・あの因業娘」
自分は一番引き入れてしまってはいけない者を宮廷に、皇帝の懐に引き入れたことになる。
梟は、いやそんなに過激なものではないと首を振った。
「ヘルメスという特異な性質のおかげで、別に積極的に孔雀が国体をどうにかしようなんて考えているわけではないでしょう。ただ、そういう事もあるかもしれないという可能性を頭のどこかに置いておれば、そうする必要がある場合にそう出来る可能性がある、という話」
同じじゃないか、と白鷹は吐き捨てた。
緩やかな変化。でもそれは、破滅?
そうではない。
そう疑問を持ち、肯定出来てしまえば、人はやれぬと思うことを、やれる。
「・・・・淡雪を、殺したのは姉上ですか」
「そうよ。呆れたことだわ。皇女と夫婦ごっこだなんて。皇女がテロリストの片棒を担いだことになるのよ」
「そんな事。王族が殺し合うのなんて常だ。放っておけばいいのに」
ああ、と梟もため息をついた。
家令のなんと因業な事。
「ヘルメスというのは幸運と伝令の使者であり、商業、万物流転の神。それから盗賊でもあるそうですね。冥界と地上と天界を行ったり来たりするトリックスターだ。・・・あの末の妹にぴったりじゃないですか」
梟が封書を取り出した。
青漆色の皇帝の親書。
これを見るのは二回目だ。
「・・・翡翠がなんだって」
「総家令の即時解放命令です。従わない場合は、拘束の後、訴追されます」
「馬鹿馬鹿しい。家令がまともな裁判になるもんですか」
「だからですよ」
皇帝の意思は、戦場でも、宮廷でもなく、衆目に晒され惨めに死ねと言うことだ。
人肉を屠るダキニの最後の面白い見せ
怒り狂うかと思ったが、白鷹は静かだった。
「それもいいわね」
梟は不思議に思い、姉弟子を見た。
「・・・ねえ。梟。大戦の折、
敵国の手に落ちた女家令がどんな扱いを受けていたかなんて、想像に難くない。
宮廷においても衆目を集める美貌と存在感のある姉弟子だった。
健康的な程に陰のない明朗で快活な性格と美しさは、どうしても自分達の存在に引目を感じる家令達から愛されて、宮廷の人間からも好まれた。
あまり身近に人を寄せ付けなかった抑鬱的な女皇帝すら、あの姉弟子に楽しみと喜びを見出した程。
その女皇帝を過剰なほど過保護に愛していた総家令の
しかし、その姉弟子が久しぶりに現れた時、影のある凄味と
琥珀もその様子に落ち着かない様子だった。
白鷹が、姉弟子がどのような辛い目に遭っているのかと泣き出す前に、勝戴は口を開いた。
「目白からの伝言よ。よく聞きな。一つも取り
それは、Q国の機密情報だった。前線のどの場所に何人が配置されて、どのような装備になっているか。指揮権は誰にあるのか。現在の戦況における展望は。
白鷹は必死に飲み込むようにして頭に叩き込んだ。
「・・・それからね。お姉様は私にこう言ったの。お前が琥珀を女皇帝にしなって。でも戦は泥沼、琥珀様は一番皇位から遠いご身分。まだお若くてお体も強くはない。兄弟子も姉弟子も多くが死んだその先、この私がどうやって、と・・・」
勝戴はちょっと迷うような顔をしてから、決然と囁いた。
「あなたは特別よって、毎日言うんだよ。毎日、何回でも、何十回でも。あなたが皇帝にふさわしいって。いいね、私の可愛い
そう最後に言って、姉弟子は自分と別れたのだ。
「だから、私。毎日言ったのよ。あなたは特別よって。あなたが皇帝になるのよって。結果、琥珀様は、父王を追い込んで、兄王から皇位を
琥珀は、そもそも決して野心を抱くような女性では無かった。
どちらかと言ったら、大人しい、目立たぬ程に可憐で優し気な少女だったのだ。
当時、宮廷に彼女の身の置き場は無かった。
黒曜帝の継室であった元老院末席の家出身の母が早くに亡くなり、母の実家からの支援も少なく、間違っても皇位に関わらぬのだから役立てと戦場にその身を預けられる程に。
それでも彼女は自分に出来る限りの全てをしようと決意して前線に向かったのだ。
でも根はやはり優しい皇女だった。
あの春の花のような女性を変えたのは自分。
白鷹は少し俯いた。
梟は姉弟子の向かいの椅子に腰をかけた。
「・・・・翠玉皇女の父親はどなたですか。白鷹姉上の子ではないかと言う噂がありましたけど」
宮廷の人間も誰も知らない。
琥珀帝の最後の出産は大変な難産で、前女官長程の女性が取り乱し、医師が母子の命を約束出来ないかもしれないと言った程だったらしい。
「それこそバカバカしい流言。まさか私が子供を持つなんて。琥珀様に申し訳ないことよ」
では、と梟は更に訝った。
「・・・私と琥珀様が兄王である月長様を陥れて、あの方を大神官に任命したのは知っているわよね」
「はい。ですが、心神耗弱を患われて、しばらくの後にお亡くなりになった」
まさか、と梟が眉を寄せた。
「・・・月長様よ。あの方も龍現のお生まれだった。運命に見張られて、飲みこまれてしまったわ。私達が追い込んだのよ。・・・琥珀様はあの頃もう目が見えなかったの。だから、抗うことも難しくて」
白鷹が深く吐いた。
「・・・だから私、あの男を殺してしまったの。それからしばらくして琥珀様が妊娠していることがわかってね。当然、無いものにすると思っていたの。でも琥珀様が、産むと言って聞かなかった」
怒りと嫉妬で頭がおかしくなるかと思ったけれど。
「戦争や動乱で、沢山人を殺めて来たけれど、私が直接殺したのは月長様一人だけ。だから、一人だけ私の為に産むって琥珀様は仰ってね」
決して月長の為なんかじゃない、貴女の贖罪の為に少しでもなりますように。
そう言われて、琥珀は泣き出し、受け入れた。
悲惨な状況なのに、自分が宮廷で生き延びる為では無く、好きな人の為に子供を産むのは初めてと言って嬉しそうだった。
それで、やっと琥珀は母親になったのだ。
だから、琥珀にとって翠玉皇女の存在には特別な意味があったのか。
梟は、この姉弟子と女皇帝の歩んで来た路を思う時、いつもどうやって来たのだろうと不思議に思っていた。
前線を駆け抜け、停戦に持ち込み、戦後処理に駆け回り。動乱や抗争を経て。
魔法のような事はなく。超人でもなく。
ただ、一歩ずつ歩って来たのだ。
傷つきながら、泣きながら。
冬を耐えて、春を待ちかねて咲くささやかな花の命を信じるように。
それは強さだ。
真珠と大鷲も素晴らしい逸材であった。
けれど、あの二人に足りないものは、多分それだ。
お互いを思い合っているからこそ、傷付けたくない。
地を這って血を流してまでお互いの中に欲しいもの、守るものがなかった。
お互いそのままで充分だから。
白鷹や琥珀や、そのままでは一緒になんか居れない最初からアンバランスのあの妹弟子と皇帝と真逆。
工夫して、悩んで、どうにかして。
それを努力と言うか、滑稽と言うかは人それぞれであろうが、あの二人はその何かを積み上げて、更に積み上げて。
今やそれは自分達どころか半径何キロもの自分達の大切な人々を守る堅牢な城、安らぎを確保する庭園となった。
「さて。梟。私の処分はお前に任されているのでしょう。どこにでも行きましょう」
そう言った姉弟子は、もう何十年も見た事がない程にさっぱりとした表情をしていた。
「姉上。俺は孔雀を家令にした事を、ずっと後悔していました。更に、王族同士のとばっちりで総家令だなんて、我々をなんと思っていやがるとね。家令が王家の備品なんて冗談じゃない」
家令にあるまじき発言であるが、それは梟の正直な気持ち。
白鷹は非難の目を向けたが咎めなかった。
自分も梟も家令としての栄華もあれ、嫌と言う程辛酸を舐めて来たのだから、弟弟子の気持ちは理解はできるのだ。
「今は、孔雀を総家令にして良かったと思っています」
梟は立ち上がった。
「では。こちらをお改めください」
また青漆色の封書を出してくるのに、だからさっき見たわよ、と白鷹が言って、その手を止めた。
同じものがもう一部ある。
「これは先程の書類の、即時撤回命令の書類です」
白鷹が唖然として弟弟子を見上げた。
「翡翠様が禁軍を従えて、
まあ、皆様、この度はお騒がせ致しましてとかなんとか恥ずかしそうに言って扉から姿を現わして、優雅に女家令の礼をして見せたらしい。
「・・・自分でって、あの子、どうやって・・・」
あの猛獣の檻から自分から出てくるなんて事は不可能のはずだ。
「さあ。それは存じませんが。翡翠様は大喜びで一緒にそのまま宮城にお戻りになりました。真鶴もまた孔雀にもう大丈夫と言われてとんぼ帰り。
白鷹は、そんな事あろうはずがない、と言う表情のまま。
「・・・・でも。それはそれとして。なぜ、背信罪の私宛ての書類が撤回されたの?」
今更、翡翠が振り上げた刃を下ろすとは考えずらい。
「さっきの無しで、なんてあり得るモンじゃないんだよ?・・・全くどうなってんだろ。あの子は勝手に出て来ちまうし・・・」
不可解が過ぎる。
困惑ただ中の姉弟子の様子を見て、梟が楽し気に口を開いた。
「つまり。我らが妹弟子が、神も皇帝もたらし込んだと言うことです」
白鷹は弟弟子の話に呆れたように首を振って笑った。