第52話 恋しいのは飛び立った鳥
文字数 4,231文字
前線であるのが信じられないような、亡き皇后の宮によく似た美しい調度品にかこまれた部屋だった。。
「・・・よくまあ来たものね。梟お兄様だって、総家令になってから前線まで視察に来たことはあまりないのよ」
この妹弟子は昔、白鷹にひっぱたかれてよく泣かされていたものだ。
その後に、まあまあお姉様そんなに怒らないでやってととりなし、さあ孔雀、あと百回、いえ二百回、できるまでやるわよと扱くのが彼女流。
なんと瑞々しく優雅に育ったかと、やはり自分の教育の賜物であろうと思うあたりがやはり白鷹の妹弟子。
「青鷺お姉様こそ。ずっと前線でお勤めでしょう。そろそろお城にお戻りになったらいかがでしょう。翡翠様もお待ちになっていますよ」
青鷺が首を振った。
「いいえ。・・・私は戻らない方がいいわ。きっと藍晶様の枷にもなりかねないから」
翡翠も知っている事とは言え、もうこの企みに実際に関わった人間はもう居ない。
それでいいのだと藍玉は言うだろうけれど。
本来、関わった人間全員死んでこそ、やっと意味のあるものになるものだ。
少なからず当事者であった自分が、今更あの生まれながらに幸福な王子の一点の染みにでもなる事は望むことではない。
「川蝉は城で死んだってね。・・・大変だったわね」
まだ若い孔雀が、すでに二人の家令を看取っていた。
「順番から言えば次は白鷹お姉様なんですけど。私が死ねばよかったっていつも言うけど、もう何度も聞いたし、なんとなく言ってるだけなんでしょうね、あれ」
「あの人まだまだ頑張るでしょうよ。何食べてあの元気なのかしらね、やっぱり人の肉かもねえ」
青鷺も苦笑した。
人肉を屠るダキニと呼ばれたあの姉弟子。しばらく会っていないが、そう簡単に死にはしないだろう。
「・・・青鷺お姉様。芙蓉様にお渡しした指輪。そのまま芙蓉様がお持ちになりましたよ。お手紙は私が
指輪は芙蓉の亡骸と一緒に王家の墓に葬られ、あの割印のある手紙は二通とも、孔雀がその手でキルンで焼却した。
決して表に出せない王家や宮廷に関わる罪人や、それから家令達の骸が昇華される
「・・・ええ。ありがとう」
藍玉は間違いなく、愛した人だった。
「私は止められなかったのよ。・・・だから城から出されても当然。その上、お前が毒を賜るなんて」
以前、前線の野戦病院に来た黄鶲から聞いたのだ。
「私が城を出る事が、不遜ではあるけれど、芙蓉様にとって何らかの抑止力になるだろうと思ったの。梟お兄様にお願いしたのは私」
城を放逐される家令が妻ではまずかろうと離婚も願い出た。
「そもそも梟お兄様と結婚したのも、芙蓉様の近くにいる為に私が
「・・・本来の生い立ちですとか、お名前ですとか。元老院次席はご存じなかったようですね」
そうね、と青鷺は頷いた。
それで当然、とどこか嬉しそうだった。
真意を知っているのは私だけ、とでも言うように。
「路峯は突然に亡くなったそうね」
忌事や、重要な話題や確信こそ遠回しに婉曲表現する事が多い宮廷の嗜みが身についた青鷺にしては珍しく、はっきりと切り出す。
「はい。お気の毒でございました」
「・・・お前?」
なかなか鋭い。いや、家令達は皆気付いているのだろう。
「強いて言えば、真鶴お姉様です」
困ったように愛らしく微笑む妹弟子に、青鷺は戸惑うほどだ。
「そんなことは問題ではないんです。私が伝えなければならないのは・・・、青鷺お姉様、私が藍玉様の死の床でお預かりした言葉は、あなたを愛しているって。自分のもとを飛び立ってしまった鳥の事が恋しくて仕方なかったって」
彼女が今際の際で、孔雀が控えている事に気づき、そっと呼んだのだ。
「本来は正式な司祭が呼ばれなければならないが、
青鷺が目を潤ませた。
「・・・私もよ。きっと知っているでしょうけど。・・・真珠様が討たれて、大鷲お兄様が居なくなった時、藍玉様も廃嫡されて。ご正室様のご実家もお取り潰しになって。私、諦めきれなくって。藍玉様のお許しを白鷹お姉様に願い出たの。琥珀様が、それならば、路峯の父親の養女になって、翡翠様の正室として城に戻れと仰った。ただ、条件は、路峯との間の子を皇太子にすること。私、あんまりなことだと思って。家令じゃあるまいし、皇女にそんなことさせるなんて。随分お恨み申し上げたものよ。嫌ならば廃皇女のまま離宮をお下賜くださることになっていたの。宮廷には関われないけれど、一生は保証される。琥珀様はどちらでもいいから好きにしなさいと仰った。私はそれでいいと思ったのに。・・・あの時、なぜ、藍玉様が諾と仰ったのか、今でもわからない・・・」
「・・・青鷺お姉様。それはあなたを愛していたからよ。・・・藍玉様がなりたかったのは、皇后でもないし、離宮でのお暮らしでもないのよ。ご自分が皇帝になって、あなたを総家令にしたかったのよ」
彼女もずっと待っていたのだ。青鷺が来るのではないかと。
でもやって来たのは、真鶴。
あの姉弟子だもの。私が皇帝になったら、あんたらどうせ皆殺しよ、くらい言ったろう。
そして、青鷺は来なかった。
「・・・家令なんて気ままなものだもの。もし青鷺お姉様が本気で藍玉様を皇帝にと望んでいたら。猩々朱鷺お姉様だって、黄鶲お姉様だって、木ノ葉梟お姉様だって乗ったかもしれない。・・・真鶴お姉様が言い出したなら、私たち皆、言う通りにしちゃうもの」
真鶴が自分が皇帝になると言いだしたら、金糸雀も白鴎も雉鳩も緋連雀も自分も、喜んで飛び出したろうから。
「私もずっと真鶴お姉様を待ってたけど。・・・白鷹お姉様が、真鶴がどうなったのか知りたいなら、翡翠様に気に入られろと言ったの」
どんな時代だろうがどんな状況だろうが、家令が皇帝の一番近くにいなきゃダメなんだよ。
そりゃあ、私らのトクになるからもあるけどさ。・・・でも、今まで、元老院や禁軍や女官さえもが皇帝の一番側に侍っていた時代はあったんだよ。でもその度に諍いばかりが起きてきた。家令同士だって本気出したら戦争だけど、それは家令だけで済む話。そうじゃないなら、国が滅ぶよ。・・・あの気分屋でろくでなしの王族だよ。私らに見限られちゃ、破滅だよ。私らが居なきゃあの人達、だめになっちゃうんだよ。
魔族の一種とまで囁かれる姉弟子の、まるで娘のような言い草に、孔雀は可笑しくなってしまったのだ。きっとこの人はそうやって、琥珀に尽くしてきたのだろうと慮れて。
青鷺はその話を聞いて、妙な、本当に妙な顔をしてから、首を振った。
「・・・お前騙されてるのよ」
青鷺が言いたいのは結局これに尽きる。
「結局、白鷹お姉様にも翡翠にも。お前いいように騙されてるんだよ・・・。なんてことだろう。家令のどうしようもなさったら・・・」
孔雀はしげしげと姉弟子を見た。
こうなりゃお前は生贄。お前があっちの世話してくれりゃ仕事やりやすくていいからな。いいか、何がなんでもたらしこめ。泣き落としでも、脅しでも、やれることはなんでもやれ。
そう言うばかりの兄弟子姉弟子の中で、彼女だけが、今、人道的な事を言う。
それが常識だと言うのに、今の自分は、まるでそれが間違っているようにすら感じるのだ。
骨の髄まで女家令になるように、そう白鷹に言われてきたけれど。
悪い感染症がどんどん回って、今やすっかり家令という病気になってしまったようだ。
孔雀がため息をついた。
「・・・青鷺お姉様・・・。だから藍玉様はお姉様を愛されたのね。きっといつもお姉様だけが正しい事をあの方に仰って励ましたのよ。・・・でも私、翡翠様に騙されてはいないの。お願いされたの」
お願い。頼むから。
自分より一回りも上の、皇帝になる男が、命令でもなく、お願いだと言う。
今思い出しても恥じいるばかりだが、あの初夜の失敗の後日、翡翠は、緋連雀から孔雀が一番食べてみたい物と言っていたと聞き、飴がけのシュークリームの山を調達して来た。
そして、まだ戸惑いから抜け出せない孔雀に、彼はどうか頼むからと言った。
食い物で釣られた以上に、必死さとちぐはぐさが何だかおかしくて。
それで孔雀は、頷いたのだ。
困ったように孔雀が言うのに、青鷺が吹き出した。
確かに、あの女神のような真鶴は誰をも引きつけて、相手が自分を好ましく思わないなど考えもしないだろう。自信があるとか、自己評価が高いとか、そういうものではない。純粋に傲慢と言えばいいか。誰かに懇願などしそうにない。
青鷺は妹弟子をまじまじと眺めてからため息をついた。
「・・・もう。あんたって、ダメ男にひっかかりそうよね・・・。まあ、色男好きではないけど、優男好きよね」
「もう、なにそれ・・・」
青鷺は気の毒になりながらも、眉を寄せて「不満です」という顔をしている妹弟子の頬を突っついた。
「・・・失礼します。雉鳩が天河様をお連れ致しました」
兄弟子の声がして、ぱっと孔雀が立ち上がった。
雉鳩が先に天河を促した。
「天河様、ご無事でしたか!」
幽霊でも見るかのように天河が孔雀を眺めた。
「何で居るんだよ」
孔雀はリュックから、紙の束を取り出した。
「天河様が、おハガキの一つも翡翠様に出して下さらないからです。だから、私、葉書持ってきたんです。ほらこれ、表書きはもう書いてありますから。これに一日一行でも、お天気でも丸かバツかでもいいから書いてその日のうちに投函してください」
とりあえず三百六十五枚買ってきた、と天河に手渡す。
「まあ、これクジつきですことよ。およろしかったですねぇ、天河様。何か当たるかも」
全くお上品な声色で青鷺が茶化した。
「当たるの出した先じゃないか」
孔雀はさらにあれもこれもとテーブルに出した。
「天河様、カステラお好きでしょ。あと、特殊冷蔵保存のデコポンと、ジャムと、温泉の素。それとこれが缶詰です」
孔雀の勢いに圧倒されて天河が引き気味に頷いた。
「・・・・ど、どうもね・・・」
「お前、田舎の母ちゃんみたいだな。あ、このみかん、高いやつ」
「デコポンよ!雉鳩お兄様、勝手に食べないで!」
青鷺がお茶でもいれましょうかね、と自分はいそいそと貰ったビールを手にキャビネットに向かった。