第50話 女神の采配
文字数 3,970文字
茉莉は久しぶりに翡翠と向き合っていた。
学生時代からの長い付き合いであるが、そもそも絶交宣言をしたのは茉莉。
理由はあの妹弟子だ。
十五の小娘を総家令に仕立て上げて城に誘拐したとあっては。
変態かお前!絶交だ!そう一方的に言って、それから城になど寄り付きもしなかった。
今回登城したのは、正式な招待状が届き、無視すれば逮捕されるからだ。
「強引なことで。・・・そんなにあの次男坊が大事とは知らなかった」
いや別に、と翡翠は首を振った。
「どの道、まあ死にはしないだろ。でも、孔雀が毎日、天河が怪我してるかもしれないだの、死んだらどうしようだの、挙げ句の果ては皿が割れたから縁起が悪い、何かあったのでは、なんていうもんだからね」
なるほど。ベッドで毎日他の男の心配している話を聞かされていてそろそろ本格的に嫉妬しているわけか。
「
「本人が嫌がるもんだからな。孔雀は以前から勧めているけどね」
王族が、いかに軍からの信頼が大切か、孔雀は身をもって知っているのだろう。
「・・・さすが、児童従軍者だな。全く。真鶴が十二かそこらから孔雀を軍で連れ回していた時は、世も末だと思ったもんだ。覚えているけどさ、あの子の初陣は十三だか十四だよ。しかも前線だ。突然真鶴が孔雀に指揮権を渡したんだよ。まあ見事な首尾だ。若手の家令共の中で前線で一番の功罪を見たのは間違いなく孔雀だ」
翡翠は黙りこくってしばし考え込んでから、梟を見た。
「梟、事実か」
「はい」
「なんで言わなかった」
「お聞きにならなかったからです。そもそも家令の人事の一切は総家令の決定下ですから」
しれっと言う。
年端も行かぬ頃から前線に出されていたのは知っていた。以前、木ノ葉梟にそう聞き、えも言われぬ罪悪感を感じたものだ。
「それで。王様、本題はなんだい」
ああ、と翡翠がファイルを取り出した。
「瑠璃鶲から預かった孔雀の健診及び検査解析表の類の資料だ」
「なんだ、あの子どっか悪いのか・・・。まあ、昔っから熱出したりはしょっちゅうだったようだけど・・・」
走り書きのような瑠璃鶲のメモが書き込まれた紙の束をめくる。
茉莉が、押し黙って読み進めていたが、嫌そうに顔をあげた。
「・・・
「瑠璃鶲も見た事だけはあると言っていた」
「真鶴がやってた誰もわからない研究のひとつだな。さすが瑠璃鶲姉上。だいたいのメカニズムは合ってるんじゃないかな・・・」
彼女が亡くなった時はなんとも心もとない気持ちがしたものだ。彼女は、長くアカデミーの精神的支えでもあったから。
「なるほどなあ。一定量でアナフィラキシーショックが起きるのか。・・・血液型もレアだしなあ。これじゃあ、確かにおっかなくて軍に出すのはなあ・・・・。皇女様もとんだことをしてくれたものだ」
翡翠は憮然とした。
「あいつは悪い魔女だ。恋人達を引き裂くつもりだ」
茉莉が笑ってから、姿を消してはや数年の皇女を思った。
女神のように美しく、何でも出来て、誰をも引きつける。
自分もその一人。だから、自分は家令にもならず、面倒だと思いながら、母親の系譜である貴族籍を捨てられない。
茉莉、この名前は、琥珀帝が付けたのだ。
元々貴族筋の女官であった母は、幼い頃から女皇帝に仕えていた。いわゆるお気に入りであった。
それが、大分年上の大戦の生き残りの家令である唐丸と結婚し子供を産んだ、それが自分。家令にありがちな話で、すぐに離婚したが。
琥珀は貴族筋の馴染みの女官が産んだ子を喜び、
私の
夫というのは継室という事だ。
けれど、それは自分にとって大きな喜びだった。
真珠帝の背信の煽りを食って、翠玉皇女が家令に堕とされたと聞いた時は衝撃だったが、案外悪くないの。私結構才能あるかも、と嬉しそうに言っていたのも更に衝撃的だった。
ある時からよくピカケという名前をつけた孔雀の話を話していた。
ピカケとは、南の言葉で
美しく、頭が良く、何でも出来て、誰をも魅了する女。
なんてタチが悪いんだ。そういうのは悪魔というんだ。と言っていたのは、画聖と呼ばれる宮廷画家だった。
お前はなんて失礼なんだ、わかってない、それで芸術だなんだとよく言える、とだいぶ叱り付けると、彼は不満気にフグのように膨れていたものだ。
「最近、淡雪は?」
「春先にちょっとアカデミーのアトリエに帰ってきて、画材ガタガタしてたと思ったら、また張り紙してどっか行ったよ。窓閉めといてだの、鍵かけといてだの言って慌しくまた出てった」
「あの不良画家、数年前から
「無理だろう。あれは二十四時間のうちに本人手渡しが必要なんだもの。どこに送るんだよ」
梟が全く、と眉の眉間を深くした。
家令が本気で探せばそう難しくなく見つかるだろうが、あの気分屋の絵描きの事だ。間違いなく更に事態は拗れるだろう。
だから天才とか芸術家やらは面倒なんだ、と面白く無い。
彼の教えを受けた緋連雀がどこまでも職業画家なのとは根本的に違う。
「牛がどうのこうのって言ってたから、どこかの牧場にでもいるんじゃないですかね」
「牛ぃ?何で、牛なんだ」
「ああ、梟。ほら。来年の干支だろう」
淡雪は年賀状だけはまめなタイプで毎年送って来るのだ。
バカバカしい、と呆れながらも、梟は結構毎年楽しみにしていた。
何しろ人間国宝の手描きである。市場価格もなかなかのものだからだ。
まあ、本人が居ないのだから、説教も出来ない、梟は話題を変えた。
「瑠璃鶲姉上は、無念だけれどと黄鶲に託したがどうも芳しく無い。黄鶲が検査だと血ばかりどんどん採るから、孔雀はただ貧血が進むだけだ。いい加減にしろと言うと、なら同じ血液型の雉鳩から抜いて輸血でもしてみるかと来たもんだ。雉鳩は冗談じゃないと逃げ回ってる」
「黄鶲は野戦病院が長いからね」
そもそも母親が医師として働く前線の野戦病院で育ち、正式に家令になる前はそこで母親や他の医療従事者について自分もまた手伝っていたそうなのだ。
「仮にも医師が三人もいて、話がちっとも進んでいないと言うんだから、才能がないのでは?」
黄鶲、雉鳩、そして翡翠の事だ。
「そもそも。瑠璃鶲姉上が東洋医学というものに懐疑的だったから、黄鶲も雉鳩も、もちろん陛下もそうであるのは承知していますが。それでこの話を持ってきたというのだから、まあどん詰まりということでしょう」
何だか愉快になってきて茉莉は笑った。
「しかし、これだけ弊害が分かっているのに、何で陛下はピンピンしてらっしゃるんでしょうか。瑠璃鶲姉上の治療の効果がすでにあると言うことでしょう?」
なら、治療成功しているんじゃないか。と当然の疑問だ。
総家令は皇帝の寵愛深いともっぱらの噂ではないか。
翡翠が、それは、と嫌そうな顔をした。
梟が、しょうもない話だが、と口を開いた。
「そもそもが半未遂、半成功と言うか。初回に失敗して以来、陛下は、非常にお優しい気持ちで見守ってらっしゃる」
更に、梟が、「まあ、欲望に負けてフライングしたら死ぬしな」と小声で茉莉に伝えた。
「・・・その上、二十歳前に、無理強いしたりだまくらかしたら、国際人権団体に公表されて世間の晒し者だ」
そこら辺は鷂と金糸雀の仕業だ、と付け足す。
「つまり。あんたら・・・・ええと。・・・清い、お付き合いを・・・?」
戸惑いのあまりそれでも選んだ言葉は、どうにもへんてこりんで。
不本意だが、と翡翠が頷いた。
その表情がぶんむくれてると言う感じで。
茉莉は吹き出して笑い始めた。
「じゃあ、何してんだよ、アンタら。ベッドで一晩中」
総家令と皇帝は月に一度程度は必ず公式に夜を過ごすと聞いていた。
「・・・・主に、喋ったり。何か食ったり。最初はちょっとした甘いものやアイスクリームだったけど。最近はすごいぞ、弁当食ってる」
翡翠の答えに、茉莉は更に腹を抱えて大笑い。
梟も、呆れながらも釣られて笑っていた。
翡翠も憮然としていたが、そう悪く思ってもいないらしいのがまたおかしかった。
「ああ、失礼仕りました。あまりにも不敬でしょう。・・・しかし、あの末のチビは、呑気者だからな。今さらおっさんとヤルなんて、すっかり頭から飛んでるんじゃないか」
「そもそも真鶴の刷り込みが悪いんだ。子狸、あれが普通じゃないの、と大泣き出したんだから」
「えー、何ですかそりゃ・・・」
つまり、と梟が、更に小声で、当日閨房で何が起きたのか説明をすると、また茉莉が腹を抱えて笑い出した。
「・・・・君達、傷をえぐるのはやめてくれるかな」
翡翠が抗議した。
「いや、重ねて大変な無作法を致しました。いやはや、それでは陛下も驚いた事でしょう。はー、笑った笑った・・・。アカデミー特別委員が保管した研究は、委員全員の許可が無いと開けられない。だからまあ、ヒラの俺では無理だけど。まあ、こっちには対処法がある。・・・陛下の紳士的なお振る舞いに敬意を表しましょう。さて。女神様のご采配を蝙蝠如きがどこまで覆す事ができるかどうか・・・」
そう言って彼は、女神の思いを辿るかのようにもう一度書類に目を落とした。